治承・寿永の乱における活躍と甲斐源氏の粛清とは? わかりやすく解説

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治承・寿永の乱における活躍と甲斐源氏の粛清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 15:42 UTC 版)

甲斐源氏」の記事における「治承・寿永の乱における活躍と甲斐源氏の粛清」の解説

以仁王の令旨東国各地に伝わると、武田信義安田義定らが挙兵する。甲斐院政期以降長く院近臣による知行国となっており、治承三年の政変における後白河院幽閉影響があったと考えられている。治承4年1180年8月には安田義定が波志田山で石橋山の戦い勝利した大庭景親戦い9月には武田信義らが信濃諏訪郡攻め込んで影響下に置いた信濃競合する木曾義仲は、西上野に進出した後、横田河原の戦い経て北陸道進出する)。その後武田信義らは鉢田の戦い経て駿河進出し源頼朝提携した富士川の戦い平維盛らの平家軍に勝利したその後武田信義駿河を、安田義定遠江実効支配し、頼朝義仲と並ぶ東国武家棟梁一角を占めるうになるまた、治承4年1180年)末に蜂起した近江源氏とも連絡取っていたことも『玉葉』に記載されている。 安田義定寿永2年1183年)に義仲とともに入京し、従四位下・遠江守叙任されている。元暦元年1184年)には源範頼義経軍勢安田義定一条忠頼加わり粟津の戦いにおいて義仲滅亡させる。さらに同年一ノ谷の戦いでは義定・武田有義・板垣兼信らが平氏追討参加している。有義はさらに範頼の軍勢属し西国出陣している。 一方この頃には頼朝による甲斐源氏粛清開始され同年には一条忠頼鎌倉において誅殺されており、その頃鎌倉勢による甲斐信濃への出兵なされた『吾妻鏡』)。

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