治政の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:17 UTC 版)
自由の身となった覚馬は明治3年(1870年)、京都府大参事・河田佐久馬の推挽により京都府庁に出仕し、権大参事として府政の実権を握っていた槇村正直(のち京都府令・知事)の顧問として府治を指導する。槇村の下で、小中学校・女学校・病院・医学校などの設立に力を尽くした他、大阪と北陸を結ぶ京都鉄道の敷設願書を当局に提出するなど、開明的諸政策を推進、有能な人材に支えられ、京都の近代化に大きく寄与した。また家では講筵を開いて政治学・経済学を講義した。日本で最初の博覧会となった京都博覧会を支援し、明治6年(1873年)、日本人による日本で最初とみられる英文案内記「The guide to the celebrated places in Kiyoto & the surrounding places for the foreign visitors」を著す。また、この頃に脊髄を損傷し、体の自由も利かなくなる。
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