治承寿永の乱と奥州合戦とは? わかりやすく解説

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治承寿永の乱と奥州合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 13:28 UTC 版)

和田義盛」の記事における「治承寿永の乱と奥州合戦」の解説

『吾妻鏡』では、その後、義盛は罪人処断や、平家対峙する遠江国への派遣などの活動をしている。源義仲との合戦や、一ノ谷の戦い軍中にはその名は見えない元暦元年1184年8月頼朝の弟の範頼が平家追討のため1,000余騎を率いて鎌倉発向した。侍所別当の義盛は軍奉行としてこの軍勢従軍している。範頼の軍は山陽道進軍し九州渡り平家包囲し退路遮断する戦略であった慎重な範頼は戦の大小のことを義盛とよく相談した。ところが、遠征軍養和の飢饉悪影響残っていたために兵糧調達苦しみ瀬戸内海平家抑えられ、船がなく九州にも渡れ戦い長期化した。『吾妻鏡』元暦2年1月12日の条には苦戦訴える範頼の記事があり、その中で東国の者たちは、(長期戦いに)すこぶる退屈しており、本国懐かしみ、和田小太郎義盛までもが秘かに鎌倉帰ろうとする始末です。その他の者たちは言うまでもありません」と報告されている。 1月26日遠征軍兵船調達成功し、義盛は北条義時足利義兼らと豊後国渡った豊後葦屋浦の戦い平家方を撃破し平家背後遮断成功するその間源義経屋島の戦い勝利し平家長門国彦島孤立した3月25日壇ノ浦の戦いが行われ、範頼の軍は陸地布陣して海戦を行う義経の軍を支援した『平家物語』によると義盛は馬上渚から遠矢を射かけ、二町三町飛ばし平家方を驚かせ、矢に自分の名を記しておき「この矢を返してみせよ」と挑発した。平知盛平家方の強弓使い手探し伊予国住人仁井親清が見事に矢を射返して、義盛の自慢笑った怒った義盛は船に乗って散々に戦ったという。合戦源氏勝利終わり平家滅亡した平家滅亡後大功のあった義経頼朝対立義経軍奉行だった梶原景時讒言したのも一因である。義盛は侍所別当、景時は次官所司で、各々平家追討軍を率いる範頼、義経補佐についていた。 義経頼朝謝罪する許されず、京で挙兵を図るが失敗し奥州藤原氏の許へ逃れた文治5年1189年)、藤原秀衡の後を継いだ泰衡が義経殺し6月にその首が鎌倉届けられ、義盛と景時が首実検行った同年7月頼朝奥州藤原氏討伐の軍を起こす奥州合戦)。義盛はこれに従軍し阿津賀志山の戦いで泰衡・国衡兄弟大敗喫し逃亡、義盛は先陣をきってこれを追撃し、国衡と矢戦を交わした戦後、国衡を討ち取った戦功巡って畠山重忠論争になっている9月、泰衡が家人裏切られてその首が幕府軍陣中送られ、義盛・重忠が首実検行った

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