治承寿永の乱と奥州合戦
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『吾妻鏡』では、その後、義盛は罪人の処断や、平家と対峙する遠江国への派遣などの活動をしている。源義仲との合戦や、一ノ谷の戦いの軍中にはその名は見えない。 元暦元年(1184年)8月、頼朝の弟の範頼が平家追討のため1,000余騎を率いて鎌倉を発向した。侍所別当の義盛は軍奉行としてこの軍勢に従軍している。範頼の軍は山陽道を進軍して九州へ渡り、平家を包囲し、退路を遮断する戦略であった。慎重な範頼は戦の大小のことを義盛とよく相談した。ところが、遠征軍は養和の飢饉の悪影響が残っていたために兵糧の調達に苦しみ、瀬戸内海を平家に抑えられ、船がなく九州にも渡れず戦いは長期化した。『吾妻鏡』元暦2年1月12日の条には苦戦を訴える範頼の記事があり、その中で「東国の者たちは、(長期の戦いに)すこぶる退屈しており、本国を懐かしみ、和田小太郎義盛までもが秘かに鎌倉へ帰ろうとする始末です。その他の者たちは言うまでもありません」と報告されている。 1月26日に遠征軍は兵船の調達に成功し、義盛は北条義時、足利義兼らと豊後国へ渡った。豊後葦屋浦の戦いで平家方を撃破し、平家の背後の遮断に成功する。その間に源義経は屋島の戦いに勝利し、平家は長門国彦島に孤立した。3月25日、壇ノ浦の戦いが行われ、範頼の軍は陸地に布陣して海戦を行う義経の軍を支援した。『平家物語』によると義盛は馬上渚から遠矢を射かけ、二町三町も飛ばし、平家方を驚かせ、矢に自分の名を記しておき「この矢を返してみせよ」と挑発した。平知盛は平家方の強弓の使い手を探し、伊予国の住人仁井親清が見事に矢を射返して、義盛の自慢を笑った。怒った義盛は船に乗って散々に戦ったという。合戦は源氏の勝利に終わり、平家は滅亡した。 平家滅亡後、大功のあった義経と頼朝が対立。義経の軍奉行だった梶原景時が讒言したのも一因である。義盛は侍所別当、景時は次官の所司で、各々が平家追討軍を率いる範頼、義経の補佐についていた。 義経は頼朝に謝罪するが許されず、京で挙兵を図るが失敗し、奥州藤原氏の許へ逃れた。文治5年(1189年)、藤原秀衡の後を継いだ泰衡が義経を殺し、6月にその首が鎌倉へ届けられ、義盛と景時が首実検を行った。 同年7月、頼朝は奥州藤原氏討伐の軍を起こす(奥州合戦)。義盛はこれに従軍し、阿津賀志山の戦いで泰衡・国衡兄弟は大敗を喫し逃亡、義盛は先陣をきってこれを追撃し、国衡と矢戦を交わした。戦後、国衡を討ち取った戦功を巡って畠山重忠と論争になっている。9月、泰衡が家人に裏切られてその首が幕府軍の陣中に送られ、義盛・重忠が首実検を行った。
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