治承の兵火と復興造像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 06:43 UTC 版)
「興福寺の仏像」の記事における「治承の兵火と復興造像」の解説
治承4年(1180年)12月の平重衡による兵火で、東大寺と興福寺は大打撃を受けた。興福寺では主要堂塔のことごとくが灰になり、安置されていた仏像も一部は救い出されたものの、多くが失われた。 藤原氏の氏寺として強大な勢力を有していた興福寺ではただちに堂塔と仏像の復興計画が立てられた。建物については、公家(朝廷)、氏長者(藤原氏の代表者)、寺家(興福寺自身)の3者が分担して再建を行うことになり、火災の約半年後の治承5年(1181年)6月には分担が決まった。九条兼実の日記『玉葉』によると、中金堂、回廊、僧坊、経蔵、鐘楼、中門は公家の沙汰、つまり朝廷が諸国に負担を割り当てて復興することとなった。他の堂宇については、講堂、南円堂、南大門は氏長者の沙汰、食堂と上階僧坊は寺家の沙汰、東僧坊は氏知識の沙汰でそれぞれ復興することとされた。東金堂、西金堂、北円堂については、以上の計画の中に入っていないが、東金堂と西金堂は養和2年(1182年)に「手斧始め」が行われており(『中臣祐重記』)、北円堂はやや遅れて建永2年(1207年)に再建が発願されている(『弥勒如来感応抄』)。 焼失した仏像群の復興にあたっては、当時の有力仏師であったいわゆる院派、円派、慶派の仏師が動員されている。当初、京都仏師の院尊(院派)が中金堂と講堂の造像を担当することに決まりかけていたが、これには三条仏師の明円(円派)や奈良仏師の成朝(慶派)が反発した。その結果、中金堂は法眼明円、講堂は法印院尊、食堂は成朝(無官)、南円堂は慶派の法橋康慶がそれぞれ大仏師に任命され、造仏を担当することとなった(『養和元年記』)。 下図は興福寺曼荼羅(京都国立博物館蔵、重要文化財)で、鎌倉時代の作品。この画題では最古の作品と目され、鎌倉復興期の興福寺諸堂の安置仏像の実態を知る資料として貴重である。 春日社 北円堂 講 堂 五大院食堂 中金堂 西 金 堂 東 金 堂 南円堂 中 門 五重塔 南大門
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