越後池氏
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平頼盛の後裔であるとの伝承を持つ。出自については、実は平氏ではなく高志池君(垂仁天皇の末裔を称する皇別氏族)の子孫であったとする説もある。新潟県には平頼盛の伝説を伝える地が多く、親不知の伝承によると壇ノ浦の戦い後に助命された頼盛は越後国蒲原郡五百刈村(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていたとされ、現在でも新潟県中越地方に多い苗字である。 三条、蒲原郡周辺には越後池氏の伝承が多く伝えられているが、確実な史料での初見は池宮内大夫頼章、頼定兄弟相論への幕府による裁許の弘安11年(1288年)の関東下知状(『新潟県史 資料編5』2786号)である。 当時池氏は下総大夫盛氏を惣領地頭とする福雄荘(新潟県燕市)の一分地頭であり、弥彦神社の神官も務めていた。元応2年(1320年)、池新大夫為定が関東御公事の勤めをはたすことができないとの理由で所領を譲り渡している史料(『新潟県史 資料編5』4007号)から、池一族は吉河荘(長岡市)にも所領を領有していたことがわかる。越後池氏に関しては、出自を含め不明なことが多いとされるが、近年、福雄庄や吉河庄が関東御領の可能性があると考えられること、「池大納言所領相伝系図」(朽木文書・『鎌倉遺文』31208号)では、池大納言家保業流の維度、宗度は河内大夫と通称しており、越後池氏の一族も「大夫」を通称としていることなどから、関東祗候の家であった保業流の一族が越後に入部した説も唱えられている。 元弘3年(1333年)鎌倉幕府滅亡のさい、討幕軍に参加した越後勢として池七郎成清の名が認められる(「大河戸隆行軍忠状」『鎌倉遺文』32647号)。鎌倉後期には関東御領の多くが北条氏領とされているが、前述の池兄弟相論の地は最終的には北条氏の護持僧の所領とされており、北条氏に圧迫され所領を奪われていったことが、池氏が討幕軍に参加した理由ではないかと推論されている。 南北朝時代には南朝方として三条周辺や山古志に勢力を持ち、北朝方の中条氏らと争った記録がみられる。のちに北朝方となり足利尊氏に従った。 1336年(建武3年)、池氏が小国氏、河内氏、風間氏、於木氏、千屋氏、高梨氏らと南朝方として挙兵。島崎城に篭もり色部高長・加地景綱らと戦うが落城。(「色部高長軍忠状」(『色部史料集』)、「三浦和田義成軍忠状」(『奥山庄史料集』)) 1337年(延元2年4月17日)、池氏が北朝方の高梨経頼、市河助房らと頸城郡水科水吉で戦い敗北。直峰城に退却。翌年、新田義貞が戦死したため、南朝方は壊滅的となる。(「島田助朝軍忠状」(『越佐史料』)、「色部高長軍忠状」(『色部史料集』) 1341年(興国2年)、五十嵐氏、風間氏らと共に宗良親王を寺泊に迎える。 1350年(正平5年)観応の擾乱が勃発。池氏は北朝方に寝返り足利尊氏に従った。 1352年(正平7年)2月、南朝方の風間信昭から攻撃される。8月、多却氏、石坂氏らと蔵王堂城を攻撃、次いで大面荘(三条市)に篭り風間越後守、村山信義らに攻撃される。 戦国時代の池氏は三条城代山吉氏の配下三条衆の中にその名を認める(「三条衆給分帳」)。三条衆の中でも有力な家であったが、山吉豊守の死後、三条衆は神余親綱の配下となった。御館の乱で景虎方に立った親綱は、最後は景勝方に内応した三条衆に討たれたが、池氏は最後まで城主親綱に従ったと思われ、池氏の所領は景勝方の恩賞として配分されている。 なお、確かな史料では確認されていないが、山吉氏を池氏の末裔と推測する説もある。
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