越後池氏とは? わかりやすく解説

越後池氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/20 06:39 UTC 版)

池氏」の記事における「越後池氏」の解説

平頼盛後裔であるとの伝承を持つ。出自については、実は平氏ではなく高志池君(垂仁天皇末裔称する皇別氏族の子であったとする説もある。新潟県には平頼盛伝説伝える地が多く親不知伝承によると壇ノ浦の戦い後に助命された頼盛は越後国蒲原郡五百刈現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていたとされ、現在でも新潟県中越地方に多い苗字である。 三条蒲原郡周辺には越後池氏の伝承多く伝えられているが、確実な史料での初見は池宮内大夫頼章、頼定兄弟相論への幕府による裁許弘安11年1288年)の関東下知状(『新潟県史 資料編5』2786号)である。 当時池氏下総大夫盛氏を惣領地頭とする福雄荘(新潟県燕市)の一分地頭であり、弥彦神社神官務めていた。元応2年1320年)、池新大夫為定が関東御公事勤めをはたすことができないとの理由所領譲り渡している史料(『新潟県史 資料編5』4007号)から、池一族吉河荘(長岡市)にも所領領有していたことがわかる。越後池氏に関しては、出自含め不明なことが多いとされるが、近年、福雄庄や吉河庄が関東御領可能性があると考えられること、「池大納言所領相伝系図」(朽木文書・『鎌倉遺文』31208号)では、池大納言家保業流の維度、宗度は河内大夫通称しており、越後池氏の一族も「大夫」を通称としていることなどから、関東祗候の家であった保業流の一族越後入部した説も唱えられている。 元弘3年1333年鎌倉幕府滅亡のさい、討幕軍に参加した越後勢として池七郎成清の名が認められる(「大河隆行軍忠状」『鎌倉遺文』32647号)。鎌倉後期には関東御領多く北条氏領とされているが、前述の池兄弟相論の地は最終的に北条氏護持僧所領とされており、北条氏圧迫され所領奪われていったことが、池氏討幕軍に参加した理由ではないか推論されている。 南北朝時代には南朝方として三条周辺山古志勢力持ち北朝方の中条氏らと争った記録みられる。のちに北朝方となり足利尊氏従った1336年建武3年)、池氏小国氏河内氏風間氏、於木氏、千屋氏、高梨氏らと南朝方として挙兵島崎城篭もり色部高長・加地景綱らと戦うが落城。(「色部高長軍忠状」(『色部史料集』)、「三浦和田義成軍忠状」(『奥山史料集』)) 1337年延元2年4月17日)、池氏北朝方の高梨経頼、市河助房らと頸城郡吉で戦い敗北直峰城退却翌年新田義貞戦死したため、南朝方は壊滅的となる。(「島田助朝軍忠状」(『越佐史料』)、「色部高長軍忠状」(『色部史料集』) 1341年興国2年)、五十嵐氏風間氏と共に宗良親王寺泊迎える。 1350年正平5年観応の擾乱勃発池氏北朝方に寝返り足利尊氏従った1352年正平7年2月南朝方の風間信昭から攻撃される8月、多却氏、石坂氏らと蔵王堂城攻撃次いで大面荘(三条市)に篭り風間越後守村山信義らに攻撃される戦国時代池氏三条城代山吉氏の配下三条衆の中にその名を認める(「三条給分帳」)。三条衆の中でも有力なであったが、山吉豊守死後三条衆は神余親綱配下となった御館の乱景虎方立った親綱は、最後景勝方内応した三条衆に討たれたが、池氏最後まで城主親綱に従った思われ池氏所領景勝方恩賞として配分されている。 なお、確かな史料では確認されていないが、山吉氏池氏末裔推測する説もある。

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