越後毒消し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 02:26 UTC 版)
北前船の寄港地である一方で陸上交通が不便な地域である角海浜は、慶長期にあっては、越後毒消しの発祥の地となった。 この毒消しの起源は、弥彦神霊授与説や城願寺唐人伝授説などの諸説が在るが、少なくとも1609年当時の角海浜に在った寺院の称名寺にまで遡れる。越後平野は度々洪水の被害に遭ったが、そこから山を越えた所に在る角海浜は水害とは無縁であったことが発祥となった理由として考えられている。 称名寺の庫裡で作られたこの毒消しは、硫黄・菊名石・隠元豆(白扁豆)・甘草・天瓜粉(天花粉)が処方されており、食中毒・便秘・下痢に効能を持つ生薬であった。後に、この薬は丸剤『毒消し丸』等の多くの商標を生み出すこととなった。 その当時は、寺院や名家には必ずと言って良いほどに伝薬が有り、布教のために、人々の求めに応じて施薬していた。称名寺で作られたこの薬は、江戸時代末期の1840年に同寺の借財解決のためにその檀家以外にも広く頒布されるようになり、城願寺や滝澤家でも作られるようになった。その後の1846年には同村の滝深庄左エ門に製造権と販売権が譲渡された。そして、彼を筆頭とした角海浜の男性がこの薬で他国稼ぎの行商を始め、施薬元と売り子から成る独特の販売方式が創り出された。明治維新で関所が廃止された(女性の行商禁制の撤廃)後には、女性の参加によって飛躍的な発展を遂げた。 この頃、波欠けで海岸浸食が進んで農地を失った村では農業だけでは生計が成立し難く、多くの女性が義務教育を修了すると、一家の現金収入を得るために日本中の都市部で毎年長期間の集団生活で、薬売りの行商に従事した。 この全盛期は明治末期から昭和初期にかけてで、その頃には角海浜周辺の自然条件の類似した集落(角田浜・五ケ浜・越前浜・四ツ郷屋・他)からもたくさんの女性が従事していた。それらの集落を合わせると、例えば、1928年には売り子の数は1125人に達し、1930年には親方694人および弟子1241人が存在した。波欠けや山崩れで土地を失った女性のなかには、『毒消し娘』としてこの行商に携わった人も多かった。 第二次世界大戦終戦後の1948年12月に薬事法の施行で薬の現金取引行商が禁止されると、この行商人を取り巻く環境は大きく変化した。当時の角田方面の行商人1800人あまりが配置販売業を余儀無くされ、起業のための資本や配給台帳の記載に関する不安から転職する行商人が続出した。翌1949年には浦濱村では、この産業の衰退に伴って、本籍人口の1500⁓1600人のうちの約500人が離村して世帯を持つ状態になった。また、毒消しの本場であった角海浜では、売り子は僅か11人のみという状況で、高齢化と過疎化が進行していた。更に、毒消し売りは新薬の進出や社会情勢の変化等で急速に衰微していった。 その後も、この毒消しは、新潟懸製薬の散剤『越後毒けし散』や関川製薬の『越後毒消丸』のように、企業によって少量ながら製造された。特に、香林堂(現・吉田薬品工業)の丸剤『越後毒消丸』は2009年7月まで製造され続けた。 また、歌謡曲『毒消しゃいらんかね』は既述の毒消し売りの女性を歌ったものとして知られる。
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