正盛流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 07:57 UTC 版)
伊勢平氏の諸流の中で最も著名なのが維衡の子平正度の五男平正衡の系統である。ただしこの系統は、伊勢国とのつながりがほとんどなく、所領の多くは伊賀国にあった。正衡の子平正盛は伊賀国の所領を白河院に献上したことで北面武士に列せられる栄誉を受けるなど、白河院の寵愛を受けることとなった。嘉承2年(1107年)、源義家の次男で出雲国で濫行を重ねていた源義親の追討使に抜擢され、義親を討ったと報告した時点で報奨に但馬守に任ぜられるなど、明らかに院の特別な引き立てを受けていた。こうして正盛の家系は他の伊勢平氏諸流と一線を画した軍事権門となり、他の平氏諸流は正盛に従属するようになっていった。 その子忠盛も鳥羽上皇の時に内昇殿を許され、殿上人となり、刑部卿にまで累進するなどの寵愛を受け、伊勢平氏は公卿に準ずる地位にまで家格を上昇させるに至った。忠盛は播磨・伊勢の国守となる。これが後の伊勢平氏の豊かな財政の基礎となった。 忠盛の後を継いだ清盛は保元の乱で活躍した後、平治の乱では決定的な役割を果たした。その後従一位・太政大臣にまで昇進、「平家(へいけ)」一門の栄華を築き上げる。『平家物語』では、一門の公卿は16名、殿上人は30余名、諸国の受領・衛府・諸司は60余名。当時の日本の半国に当たる、30余国の知行国を持っていたと描写されている。ただし、この表現には誇張が含まれており、同時期に公卿に列した人数は最大でも12名であった。 しかし治承・寿永の乱で敗北し、清盛の系統は断絶した。また平家の家人となっていた多くの諸流も没落した。 一方で、戦乱から落ち延びた平家諸流の後裔を名乗る者も多く存在している(平家の落人)。平盛綱は清盛の孫資盛の後裔を称し、その子孫である長崎氏は得宗被官として鎌倉幕府で大きな勢力を得た。後に武家の織田氏・宗氏は清盛の後裔を称している。 清盛の弟平頼盛の系統・池氏は京に残ったが、室町時代頃に断絶している。また武家の越後池氏は頼盛の後裔を称した。
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