平家衰退に伴う「彦島」の使用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 22:36 UTC 版)
「彦島」の記事における「平家衰退に伴う「彦島」の使用」の解説
「引島」や「ヒクシマ」の名は古代から多くの和歌や紀行に詠まれている。例えば源俊頼が「立浪の引島に住む海人だにもまだたいらかにありける物を」と詠んだことが挙げられる。更にこの頃から『吾妻鏡』などに、「彦島」と表記されたものがあり、「引島」と「彦島」と2通りの表記が共用されながら、やがて明治頃になると「彦島」に統一されるようになった。例えば、『源平盛衰記』には「長門国彦島と云ふ...是をば引島とも名付けたり」(...は省略部分)とあり、どちらでも使用されていたことが伺える。なぜ「彦島」に統一されたのかは諸説あるが、一例として、「壇ノ浦の戦いの時に、『引は武士にとって縁起が悪い』とされ彦島に改められた」という説がある。しかし、実際には壇ノ浦の戦い以後も引の漢字も使われており、今川了俊が建徳2年に書いた『道ゆきぶり』には「国司出て引島の長さを縄してとりて...」、慶長年間の『長門国絵図』には「豊東郡引島」が見られる。しかし、明治維新が近づく文久3年(1863年)ごろからは彦島に統一されたため引という漢字は見られなくなった。 しかし、引が彦になったのはこれだけでは説明がつかない。この「引」の漢字が「彦」になったのはかつて彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)が住んでいたという伝説に基づくものという説がある。
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