屋島・壇ノ浦の戦い
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元暦2年(1185年)2月、義経は平家の本営讃岐国屋島へ奇襲をしかけた。平家は屋島を捨てて船で逃げ出すが、義経が意外な寡兵と知って激しい矢戦となった。教経は「舟戦にはやり様があるものだ」と言うと、鎧直垂を着ずに、軽装で戦い、見事な技で敵を射落とし逃すことがなかった。義経の郎党たちが主人を守ろうと矢面に立つが、「そこを退け、雑魚ども」と言うや、さんざんに射て10騎を射落とした。この時、奥州平泉から義経に従っていた佐藤継信が真っ先に矢面に立ち射抜かれた。 教経の童の菊王丸が首を取ろうと走りよるが、継信の弟の忠信がこれを射落とす。菊王丸は亡き兄通盛に仕えていた18歳の若者で、教経は菊王丸の死を悼んで戦をやめてしまった。 平家は屋島を放棄し、知盛の守る長門国彦島へ逃れた。義経は水軍を編成して彦島へ攻めよせる。背後の九州は範頼に制圧されており、既に平家に退路はなくなっていた。 3月24日、源平最後の決戦である壇ノ浦の戦いが行われた。序盤は舟戦に慣れた平家が優勢だったが、義経の水手・梶取を射る奇策と阿波水軍の裏切りそして潮の流れが反転したことにより、平家の敗北は決定的になった。
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屋島・壇ノ浦の戦い
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一ノ谷の戦いで陸上兵力の大部分を失ったことで、平氏は屋島・彦島の海上基地を生命線としてひたすら防御を固めた。9月に源範頼軍が西国に侵攻すると平氏は陸上戦闘を回避し、水軍により断続的な攻撃を行うことで戦局を打開しようとする。範頼軍は長門国に達したものの水軍力の不足から彦島を攻略できず、兵粮の欠乏や軍の士気低下に陥った。元暦2年(1185年)正月8日には、源義経が後白河法皇に範頼軍敗退の恐れもあると奏上するなど、状況は平氏にとって有利に展開していた。 しかし、直後の2月に平氏の本拠地・屋島は背後から義経軍の奇襲を受ける。屋島の防備は海上に向けられ陸上からの攻撃は想定しておらず、折りしも田口教能率いる平氏軍の主力は伊予国の河野通信討伐のため不在であり、防備は手薄だった。屋島の内裏は炎上し、狼狽した宗盛は海上に逃れる。海上退避は教能が戻るまでの時間稼ぎだった可能性もあるが、教能は戦わずして義経の軍門に下り、平氏は本拠地だけでなく瀬戸内海の制海権も失うことになった。時を同じくして九州に渡海した範頼軍に原田種直が撃破され(葦屋浦の戦い)、平氏は完全に包囲される形となった。 平氏は彦島に残存兵力を結集して最後の戦いを挑んだが、3月24日、壇ノ浦の戦いで滅亡した。知盛・経盛・教盛ら一門が入水する中、宗盛は死にきれずに泳ぎ回っていたところを息子の清宗とともに引き上げられ捕虜となった。『愚管抄』は「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ(宗盛は水泳が上手なため、浮き上がり浮き上がりする中に、生きたいと思うようになった)」とするが、『平家物語』は「西国にていかにもなるべし身の、生きながら捕らわれて、京鎌倉恥をさらすも、あの右衛門督(清宗)ゆゑなり(西国で死ぬはずだった身が、生きながら捕らわれて、京・鎌倉に恥を晒すのも、右衛門督のためだった)」という宗盛の言葉を記しており、子への愛情が死をためらわせる原因だったとしている。
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