城長茂の挙兵・京とは? わかりやすく解説

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城長茂の挙兵・京

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:06 UTC 版)

建仁の乱」の記事における「城長茂の挙兵・京」の解説

建仁元年1201年正月23日夜、城長茂突如三条大路南・東洞院大路東に所在する小山朝政邸宅襲撃する朝政は景時追放首謀者一人で、この時大番役京都守護のため在京していた。当時朝政不在であり、長茂は朝政邸の郎党らと戦ったのちに留守邸から引き上げ土御門天皇がいる仙洞御所二条東洞院殿に行き四方の門を閉ざして鎌倉幕府追討宣旨要請する拒否されると長茂らは御所から引き上げ東山清水坂あたりに潜伏した。朝政らが軍勢率いて清水坂に向かうと、既に長茂らの姿はなかった。 2月3日事態幕府もたらされ鎌倉諸人群衆騒動となる。京都守護要請により、後鳥羽上皇による長茂追討宣旨下され畿内御家人たちによる捜索が行われ、吉野山方面潜伏している事が突き止められた。2月22日、長茂らは鎌倉勢戦って敗れ、長茂とその郎党新津四郎以下が吉野の奧で討たれ、5人が捕虜にされた。長茂は討たれる前に出家していたという。 2月25日、長茂とその郎党4人の首は都大路引き回され捕虜となった者も斬首された。2月29日、長茂の甥で有力な残党であった城資家・資兄弟奥州藤原氏生き残り幕府食客となっていた藤原高衡追討受けて誅殺された。高衡は景時の取りなし幕府客人となっており、長茂と行動を共にして鎌倉から抜けだし、都に潜伏していたと見られる都における長茂の軍事行動失敗すると高衡は長茂の勢から離脱して藤原秀衡親交のあった藤原範季邸宅逃げ込んだが、長茂の郎党が範季の唐橋信濃小路にある範季邸に押しかけて高衡を連れ出している。城長茂一味鎮圧され梶原景時与党残党一掃された。

※この「城長茂の挙兵・京」の解説は、「建仁の乱」の解説の一部です。
「城長茂の挙兵・京」を含む「建仁の乱」の記事については、「建仁の乱」の概要を参照ください。

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