城長茂の挙兵・京
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建仁元年(1201年)正月23日夜、城長茂は突如三条大路南・東洞院大路東に所在する小山朝政の邸宅を襲撃する。朝政は景時追放の首謀者の一人で、この時大番役で京都守護のため在京していた。当時朝政は不在であり、長茂は朝政邸の郎党らと戦ったのちに留守邸から引き上げ、土御門天皇がいる仙洞御所の二条東洞院殿に行き、四方の門を閉ざして鎌倉幕府追討の宣旨を要請する。拒否されると長茂らは御所から引き上げ、東山の清水坂あたりに潜伏した。朝政らが軍勢を率いて清水坂に向かうと、既に長茂らの姿はなかった。 2月3日、事態が幕府にもたらされ、鎌倉は諸人群衆し騒動となる。京都守護の要請により、後鳥羽上皇による長茂追討の宣旨が下され、畿内の御家人たちによる捜索が行われ、吉野山方面に潜伏している事が突き止められた。2月22日、長茂らは鎌倉勢と戦って敗れ、長茂とその郎党新津四郎以下が吉野の奧で討たれ、5人が捕虜にされた。長茂は討たれる前に出家していたという。 2月25日、長茂とその郎党4人の首は都大路を引き回され、捕虜となった者も斬首された。2月29日、長茂の甥で有力な残党であった城資家・資正兄弟と奥州藤原氏の生き残りで幕府の食客となっていた藤原高衡も追討を受けて誅殺された。高衡は景時の取りなしで幕府の客人となっており、長茂と行動を共にして鎌倉から抜けだし、都に潜伏していたと見られる。 都における長茂の軍事行動が失敗すると高衡は長茂の勢から離脱して父藤原秀衡と親交のあった藤原範季の邸宅に逃げ込んだが、長茂の郎党が範季の唐橋(信濃)小路にある範季邸に押しかけて高衡を連れ出している。城長茂の一味は鎮圧され、梶原景時与党の残党は一掃された。
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