宗性とは? わかりやすく解説

そうしょう 【宗性】

鎌倉時代東大寺学僧藤原隆の子東大寺学び広く諸宗通じ、『日本高僧伝要文抄』他、約五〇〇冊の書をまとめた。門下凝然らが輩出。(一二〇二~七八?)

宗性

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/24 03:19 UTC 版)

宗性(そうしょう、建仁2年(1202年)- 弘安元年6月8日1278年6月29日))は、鎌倉時代前期から中期にかけての東大寺。当時の華厳宗の重鎮であった[1]。父は藤原隆兼。学僧として著名な東大寺の凝然は宗性の門弟にあたる[2]

人物略歴

建保2年(1214年)、東大寺に入って道性に師事して得度東大寺の中院・尊勝院に住した。僧綱・権大僧都を歴任し、文応元年(1260年)には東大寺別当に任じられた。旧仏教の復興に努め、寛喜2年(1230年)には笠置山貞慶の感化によって弥勒信仰に傾倒し、文暦2年(1235年)には『弥勒如来感応抄』を著している。また、建長3年(1251年)に『日本高僧伝要文抄』を撰述[1]文永6年(1269年)、権僧正に任じられている。東大寺には宗性自筆の稿本が数多く残り、彼の学識の高さをよくしめすものであるが、中には飲酒や男犯などの当時の堕落を表す資料も含まれている。建治元年(1275年)8月9日、74歳の高齢で南都を離れて、南山城笠置寺般若院の僧房に籠り、8月20日以降、『地持論指示抄』『華厳探玄記香薫抄』『華厳宗祖師伝』などを抄しはじめている。これらの高僧伝を編纂したのは、『弥勒如来感応抄』において自ら述べているように、伝記編纂の功徳によって自身が都率天に往生するためであった[3]

同性愛者であり、100人近くの稚児と関係を持った[4][5]

彼が南都を離れたのは、建治元年(1275年)8月4日に、年来同宿してきた児の力命丸が、全く過はないのに、興福寺林小路で殺害されたのが原因であるとされる。[6]

著作

  • 『弥勒如来感応抄』
  • 『日本高僧伝要文抄』
  • 『地持論指示抄』
  • 『華厳探玄記香薫抄』
  • 華厳宗祖師伝』
  • 『倶舎論本義抄』

脚注

注釈

参照

  1. ^ a b 平岡 1957, p. 554.
  2. ^ 大隅(1989)p.210
  3. ^ 平岡 1957, p. 555.
  4. ^ 戦国武将の明暗(新潮新書) 本郷 和人
  5. ^ 松尾 2008, pp. 74–79.
  6. ^ 田端泰子/細川凉一 (2002年5月30日). 女人、老人、子ども. 日本の中世 <4>. 中央公論新社. ISBN 978-4124902136 

参考文献

  • 大隅和雄「南都北嶺-旧仏教の自己変革」野上毅編集『朝日百科日本の歴史 4中世Ⅰ』朝日新聞社、1989年4月。ISBN 4-02-380007-4
  • 平岡定海「鎌倉時代に於ける僧傳の編纂について -東大寺宗性上人日本高僧傳要文抄について-」『印度學佛教學研究』第5巻第2号、日本印度学仏教学会、1957年、553-558頁、doi:10.4259/ibk.5.553 
  • 松尾剛次『破戒と男色の仏教史』平凡社〈平凡社新書〉、2008年。ISBN 978-4582854411 



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