二階堂行方とは? わかりやすく解説

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二階堂行方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/28 08:10 UTC 版)

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二階堂行方
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 建永元年(1206年
死没 文永4年6月8日1267年7月1日
改名 法名:道照
別名 和泉前司
幕府 鎌倉幕府 評定衆
主君 宗尊親王
氏族 藤原南家乙麻呂二階堂氏
父母 父:二階堂行村
兄弟 基行行義行久行方、惟行
佐々木信綱の娘[1]
行氏、行章

二階堂 行方(にかいどう ゆきかた)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武士鎌倉幕府評定衆。6代将軍・宗尊親王の御所中雑事奉行[2]

略歴

建永元年(1206年)、二階堂行村の子として誕生[1]建長元年(1249年)の引付設置と共に引付衆、建長4年(1252年)、宗尊親王を迎えるために京へ上る。建長5年(1253年)12月、4番引付頭人となる[3]このとき頭人となったのは、北条政村北条朝直北条時章得宗家周辺の北条一門だけであり、実務官僚としての二階堂行方の地位の高さが窺える[4]

正元元年(1259年)9月に評定衆[5]となり、弘長3年(1263年)7月5日に御所中雑事奉行を中原師連に交替。同年10月8日病を得て湯治をしていたが文永元年(1264年)12月10日に出家して道照と名乗った[6]。『吾妻鏡』の当該時期には敬称としての「和泉前司」の他に「行方」と実名表記されている記事が多数見られること、同様に表記されている者に目上の者が居ないことなどから、この時期の『吾妻鏡』は、二階堂行方の筆録をベースにしていると見られている。

文永4年(1267年)6月8日、死去[1]

脚注

  1. ^ a b c 「関東評定伝」、『史料綜覧』5編905冊197頁
  2. ^ 御所奉行とも。
  3. ^ 「吾妻鏡」『史料総覧』5編904冊799頁
  4. ^ なお兄行義・行久はこのとき評定衆を務めている
  5. ^ 「関東評定伝」、『史料総覧』5編905冊39頁
  6. ^ 「吾妻鏡」「関東評定伝」、『史料総覧』5編905冊81頁

出典

  • 五味文彦『増補 吾妻鏡の方法―事実と神話にみる中世』(吉川弘文館、2000年)
  • 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)
  • 東京大学史料編纂所『大日本史料』『史料総覧』



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