旧仏教の刷新
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信仰と実践を重んじる新仏教があいついで生まれ、武士や庶民に急速に浸透していったものの、社会的勢力としては南都六宗や天台宗・真言宗などの勢力(旧仏教)が、依然として大きな力を保っていた。しかし、新仏教の活発な活動に刺激をうけて、現状の反省と革新への気運が盛り上がってきた。
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旧仏教の刷新
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信仰と実践を重んじる「新仏教」があいついで生まれ、武士や庶民に徐々に浸透していったものの、社会的勢力としては南都六宗や天台宗・真言宗などの勢力(旧仏教)が、依然として大きな力を保っていた。特に山門(天台宗)は大勢力を保ち、権門勢力と結んでしばしば新仏教に弾圧を加えた(権門体制)。しかし、「新仏教」の活発な活動に刺激をうけて、いわゆる「旧仏教」内部でも現状の反省と革新への気運が盛り上がってきた。なお、後述するように、「新仏教」と呼ばれる変革運動が実際に社会を動かすような力を持つようになるのは室町時代から戦国時代にかけてのことである。 宗派 僧侶 おもな事跡 法相宗 貞慶(解脱)1155年-1213年 興福寺の僧の堕落をきらって笠置山に隠棲、戒律の護持・普及につとめ、法然の専修念仏を攻撃した。 華厳宗 高弁(明恵)1173年-1232年 京都の栂尾に高山寺を開いた。戒律を重視し、『摧邪輪』を著して法然を批判した。 律宗 俊芿(我禅)1166年-1227年 渡宋して戒律を学び、京都に泉涌寺をひらいて台・密・禅・律兼学の道場とした。真言宗泉涌寺派の祖といわれる。 叡尊(思円)1201年-1290年 大和の西大寺を復興し、戒律の護持・普及や民衆の教化につとめた。架橋や道路建設などの社会事業も熱心におこなった。 忍性(良観)1217年-1303年 叡尊の弟子で鎌倉に極楽寺をひらいた。病人や貧民救済につとめ、奈良に救らい施設北山十八間戸を設営した。 凝然(示観)1240年-1321年 学問即行の立場で仏教史はじめ多数の著述をおこない、華厳、戒律の宣揚に努めた。特に『八宗綱要』は日本仏教史上重要である。 真言宗 覚鑁(正覚)1095年-1143年 諸流細分した真言宗の修行を大成し、大伝法院流を創唱して、新義真言宗の祖といわれた。 天台宗 恵鎮(円観)1281年-1356年 叡尊らの活動に刺激を受けて戒律「復興」運動をおこす。後醍醐天皇の討幕運動に参画、『太平記』編集の責任者でもあった。
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