「新仏教」6宗の概要
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「鎌倉新仏教」とは、一般には次の6宗を示している。 宗派開祖教義教理の特色主要著書支持層中心寺院浄土宗 法然(源空)1133年-1212年 絶対他力専修念仏 難しい教義を知ることも、苦しい修行も、造寺・造塔・造仏も必要ない。ただひたすらに「南無阿弥陀仏」を唱えることが大切だと説く。 『選択本願念仏集』(1198年頃)『一枚起請文』(1212年) 京の公家、武士、庶民 知恩院(京都市東山区) 浄土真宗(真宗・一向宗) 親鸞1173年-1262年 一向専修一念発起悪人正機自然法爾 師である法然の教えを継承、展開、深化させる。一念発起(一度信心をおこして念仏を唱えれば、ただちに往生が決定する)や悪人正機説を説く。 『教行信証』(1224年頃)唯円著『歎異抄』 地方武士や農民、とくに下層民 東本願寺・西本願寺(京都市下京区) 時宗(遊行宗) 一遍(智真)1239年-1289年 全国遊行(賦算、踊念仏) 賦算(念仏を記した札を配り、受けとった者を往生させる)→男女の区別や浄・不浄、信心の有無さえ問わず、万人は念仏を唱えれば救われると説く。 (『一遍上人語録』) 全国の武士・農民 清浄光寺(神奈川県藤沢市) 法華宗(日蓮宗) 日蓮1222年-1282年 題目唱和法華経主義四箇格言 法華経こそが唯一の釈迦の教えであり、その他の経典は未完成もしくは誤りの法であるとして、題目(「南無妙法蓮華経」)唱和により救われると説く。辻説法で布教した。末法無戒を主張し、それを実践したため、日本仏教における破戒を助長した。 『立正安国論』(1260年)『開目抄』(1272年)』 下級武士、商工業者 久遠寺(山梨県身延町)、中山法華経寺(千葉県市川市) 臨済宗 栄西1141年-1215年 坐禅公案 坐禅を組みながら、師の与える問題を1つ1つ解決しながら(公案問答)、悟りに到達すると説く。政治に通じ、幕府の保護と統制を受ける。 『興禅護国論』(1198年) 公家、京・鎌倉の上級武士、地方有力武士 建仁寺(京都市東山区)、建長寺(神奈川県鎌倉市) 曹洞宗 道元1200年-1253年 出家第一主義修証一等只管打坐 ただひたすら坐禅を組むこと(只管打坐)で悟りにいたることを主眼とし、世俗に交わらずに厳しい修行をおこない、政治権力に接近しないことを説く。 『正法眼蔵』(1231年-1253年)懐奘著『正法眼蔵随聞記』 地方の中小武士・農民 永平寺(福井県永平寺町) すなわち、他力本願を旨とする浄土系諸宗(浄土宗、浄土真宗、時宗)、天台宗系の法華宗(日蓮宗)、不立文字を旨とする禅宗系の臨済宗と曹洞宗である。 「鎮護国家」の思想のもと、律令国家によって保護された奈良時代の南都六宗(奈良仏教)が仏教研究者集団としての性格をもち、また、平安仏教においては、学問的能力を必要とした顕教にしても、きびしい修行と超人的能力を前提とする密教にしても、貴族仏教としての性格を免れなかったのに対して、上記の6宗は主として新たに台頭してきた武士階級や一般庶民へと広がっていった。 国風文化期に隆盛した浄土教にしても、平安時代にあっては、阿弥陀堂建立の盛行にみられるように経済力の裏づけあってのものであったが、それに対し鎌倉仏教は、概して、 易行(いぎょう)…厳しい修行ではない 選択(せんちゃく)…救済方法を一つ選ぶ 専修(せんじゅ)…ひたすらに打ち込む の諸特徴を有するといわれ、特に念仏を重んじる浄土系の浄土宗・浄土真宗・時宗に顕著にみられる。浄土系諸門はみずからを「他力易行門」と称し、禅宗(臨済宗、曹洞宗)の実践する坐禅を「自力」のわざであり、「難行」であると批判したが、悟りに到達する方法として一つを選び、それに打ち込むあり方においては、禅宗もまた鎌倉時代に成立した他の「新仏教」諸派に共通する要素をもっていた。 12世紀からの大転換期にあって、人びとは相次ぐ戦乱と飢饉に末法の世の到来を実感し、あたらしい救いを仏教に求めた。こうした要望にこたえたのが、信心や修行のあり方に着目した念仏と題目、および禅の教えであった。これらは、庶民や新興武士階級にも受容できる仏教のあり方だったのである。そして、民衆の生活に奥深く浸透していった点で、鎌倉仏教(「鎌倉新仏教」)は、大陸から伝わった仏教の「日本化」を示す現象として説明される。
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