比丘になるとは? わかりやすく解説

比丘になる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)

文観」の記事における「比丘になる」の解説

正安2年1300年)、数え23歳の時、文観菩薩大苾芻位(ぼさつだいびっしゅい)を受けた(『瑜伽伝灯鈔』)。苾芻(びっしゅ)とは比丘(びく)と同義語で、つまり一人前僧侶になったのである真言律宗場合、『梵網経』による梵網十重禁戒授かるのが、比丘になる要件である。入門編である勤策十戒自分自身戒める誓いなのに対し梵網十重禁戒他人考慮した戒律になっており、例えば「7. 自讃毀他戒(自讃止め他人中傷しないこと)」「8. 慳生毀辱戒(人に物惜しみをしないこと)」「9. 瞋不受謝戒(他人謝罪した怒り止めてすぐに受け入れること)」といったものがある(『梵網経古迹記』)。 比丘になった同年7月21日には、大和国吉野現光寺(後の奈良県吉野郡大淀町世尊寺)で叡尊画像描いている(のち東京都室泉寺)。この仏画は、文観年齢あまりにも若すぎるため、本当に文観真作かどうか疑われたこともあったが、仏教美術研究者内田啓一は、絵師としての力量年齢関係ないとして、確かに文観のものであるとしている。のち、文観数え60歳のとき、仏教界の第一人者であった時に、この画像を再び観る機会あったようで、若いころ自分署名の横に、昔の自作を観て感慨深く思ったことを記し、「□持菩薩戒已 前東寺一長者醍醐寺座主法務」という署名をしている。 この絵の墨書によれば文観は、この頃は「二聖院殊音」(「音」は、正確に国構えに音)と名乗っていたようである。二聖院(にしょういん)と肩書があることは、文観がこの時点真言律宗中心派閥にいたことを示す。つまり、二聖院は西大寺中心的な塔頭たっちゅう祖師ゆかりの庵)で(『西大寺寺中曼荼羅図』)、文観はそこを住房所属する住居)としていたのである。 しかし、所属上は二聖でも、この年実際に吉野現光寺居住していたとみられる。師の信空も、その昔現光寺にいて「浄法房信空」を名乗ったことがあるので(『過去帳』)、おそらく信空との繋がり現光寺派遣されたと考えられる

※この「比丘になる」の解説は、「文観」の解説の一部です。
「比丘になる」を含む「文観」の記事については、「文観」の概要を参照ください。

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