比丘になる
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正安2年(1300年)、数え23歳の時、文観は菩薩大苾芻位(ぼさつだいびっしゅい)を受けた(『瑜伽伝灯鈔』)。苾芻(びっしゅ)とは比丘(びく)と同義語で、つまり一人前の僧侶になったのである。 真言律宗の場合、『梵網経』による梵網十重禁戒を授かるのが、比丘になる要件である。入門編である勤策十戒が自分自身を戒める誓いなのに対し、梵網十重禁戒は他人も考慮した戒律になっており、例えば「7. 自讃毀他戒(自讃を止め他人を中傷しないこと)」「8. 慳生毀辱戒(人に物惜しみをしないこと)」「9. 瞋不受謝戒(他人が謝罪したら怒りを止めてすぐに受け入れること)」といったものがある(『梵網経古迹記』)。 比丘になった同年閏7月21日には、大和国吉野の現光寺(後の奈良県吉野郡大淀町の世尊寺)で叡尊の画像を描いている(のち東京都室泉寺蔵)。この仏画は、文観の年齢があまりにも若すぎるため、本当に文観の真作かどうか疑われたこともあったが、仏教美術研究者の内田啓一は、絵師としての力量に年齢は関係ないとして、確かに文観のものであるとしている。のち、文観が数え60歳のとき、仏教界の第一人者であった時に、この画像を再び観る機会があったようで、若いころの自分の署名の横に、昔の自作を観て感慨深く思ったことを記し、「□持菩薩戒而已 前東寺一長者醍醐寺座主法務」という署名をしている。 この絵の墨書銘によれば、文観は、この頃は「二聖院殊音」(「音」は、正確には国構えに音)と名乗っていたようである。二聖院(にしょういん)と肩書があることは、文観がこの時点で真言律宗の中心派閥にいたことを示す。つまり、二聖院は西大寺の中心的な塔頭(たっちゅう、祖師ゆかりの庵)で(『西大寺寺中曼荼羅図』)、文観はそこを住房(所属する住居)としていたのである。 しかし、所属上は二聖院でも、この年は実際には吉野の現光寺に居住していたとみられる。師の信空も、その昔、現光寺にいて「浄法房信空」を名乗ったことがあるので(『過去帳』)、おそらく信空との繋がりで現光寺に派遣されたと考えられる。
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