蓮如上人由緒寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/01 05:18 UTC 版)
「興宗寺 (福井市)」の記事における「蓮如上人由緒寺」の解説
興宗寺第五世円慶の頃、本願寺の蓮如が越前吉崎に下向した。蓮如の下向に際しては円慶が供奉したとも、興宗寺門徒である大家彦左衛門が供奉したとも言われている。蓮如は興宗寺に滞在し文明3年7月15日に、御文章第一章の制作をした(御文来意鈔)。その後7月27日より吉崎において一宇を建立することになる。吉崎御坊の一宇建立にあたっては、朝倉氏に出入りしていた大家彦左衛門を通じ、朝倉氏(朝倉孝景か)に内々に申し入れて許容され、御山の土地と材木の寄附を受けたとされている。御坊が完成するとすぐに、多屋と呼ばれる宿坊が建てられた。初めは本向寺・本覚寺・興宗寺の三ケ寺だけであったが、その後、照護寺・興行寺・超勝寺など48もの多屋が立ち並んだ。吉崎御坊の建立やその後の蓮如の教化活動を支えた功が認められ蓮如から山号の免許があり「牛鼻山」の山号と方便法身尊像を拝領した。牛鼻山の名は、吉崎牛ケ鼻に多屋を建てていた為ともいわれ、また第五世円慶が隠居した加賀月津の牛ケ鼻に掛所があった為ともいわれている。蓮如が吉崎を退去した1475年(文明7年)には順如(蓮如長子)から蓮如絵像を下付されている。更に翌年には蓮如から親鸞聖人御影も下付されている。 現在、興宗寺の納骨堂には御文章をしたためる蓮如の像が置かれていて、蓮如との深い関係を偲ばせている。
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