本願寺再興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 17:49 UTC 版)
文明7年(1475年)8月21日、吉崎を退去。一揆を扇動した下間蓮崇を破門。小浜、丹波、摂津を経て河内出口(後の光善寺)に居を定めた。文明10年(1478年)1月29日、山科に坊舎の造営を開始。8月17日、第三夫人如勝尼が死去。文明13年(1481年)、真宗佛光寺派佛光寺の法主であった経豪が佛光寺派の48坊のうちの42坊を引き連れて蓮如に合流。蓮如から蓮教という名を与えられて改名し、興正寺(真宗興正派)を建立する。これによって佛光寺派は大打撃を受けた。 文明14年(1482年)には真宗出雲路派毫摂寺第8世で真宗山元派證誠寺の住持でもあった善鎮が門徒を引き連れて合流してきた。 文明15年(1483年)8月22日、山科本願寺が落成する。同年、長男順如が死去。
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