本願寺成立とは? わかりやすく解説

本願寺成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 06:26 UTC 版)

本願寺の歴史」の記事における「本願寺成立」の解説

元亨元年1321年)、覚如再度寺院化を試み、「本願寺」と号し成立する。これより後、本願寺教団移転時に御真影」を安置している寺を「本願寺」と呼称するようになる。(便宜上、「大谷本願寺」と呼称される場合もある。)「本願寺」の寺号は、13世紀親鸞廟堂に対して亀山天皇より下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)が由来であるとされる寺院化にともなって覚如それまで影堂廟堂)に掛けられていた帰命十方無碍光如来十字名号本尊とするのではなく新たに木造阿弥陀如来立像本尊にしようとしたが、高田門徒反対にあい、十字名号本尊とされた。 覚如は、親鸞門弟門徒を「本願寺」のもとに統合しよう企図する元弘元年1331年)、覚如は『口伝鈔』を著し、「三代伝持の血脈けちみゃく)」を表明し法灯継承主張する法脈法然親鸞如信覚如血統親鸞覚信尼覚恵覚如)。 自らを、「本願寺第三世」とし、親鸞を「宗祖」(「開祖」)、如信を「本願寺第二世」に定める。 しかし現実問題として、長年培ってきた経済力場合によっては軍事力有する延暦寺以下の既存寺院対抗して京都の中で独自の教団打ち立てる事は困難であった正和以後元徳2年1330年)・観応3年1352年)・嘉慶2年1388年)にも弾圧受けており、浄土真宗他派東国などで勢力広めている間にも、逆に本願寺のみは衰退して延暦寺支配下にあった青蓮院末寺として延暦寺への忠誠念仏禁止条件として存続許されているという状況であった。 ただし、こうした通説に対して太田一郎親鸞青蓮院九条家出身青蓮院門跡慈円の下で出家した縁で当初一条家九条家支流)および青蓮院つながりが深い妙香院門跡候人となったこと、妙香院15世紀本願寺では蓮如継承前後)に衰退して青蓮院吸収されたために青蓮院傘下移ったこと、候人門跡近侍奉公する立場であるが教義的な拘束はなく、妙香院青蓮院本願寺教義干渉した記録はない一方で、むしろ延暦寺による法難の際には最後まで本願寺擁護し続けた事実指摘して本願寺青蓮院末寺であったとまでは言えず、反対に妙香院青蓮院による庇護があったとしている。 観応元年1350年)、存覚覚如和解するも、本願寺別当職(留守職に住持職を含めた役)には復職せずに甥の善如委譲する

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