本願寺継承
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石山戦争の折、顕如は織田信長と和睦し、天正8年(1580年)に石山本願寺を退去、紀伊国鷺森に移った。その後、顕如は豊臣秀吉に寺地を与えられ大坂天満に移る。天正19年(1591年)に天満本願寺にて得度し、理光院と称したが、秀吉により現在の本願寺の地である京都の七条堀川に再び寺地を与えられ移転。これに伴い准如も京都に入るが、翌年の天正20年(1592年)に顕如が没すると、文禄2年(1593年)閏9月16日、秀吉の命により准如が本願寺を継承し、第十二世となることが決定する。 西本願寺の主張によると、もともと顕如の長男である教如は天正8年の石山本願寺退去の折、織田信長への抗戦継続を断念した父に背いて石山本願寺に篭るなど父と不仲で、また、信長の跡を継承した秀吉にも警戒されており、自然と准如が立てられるようになったという。顕如の次男である興正寺顕尊(教如の同母弟)も准如の後見人として自分の娘を正室として迎えさせるなど准如の支持にまわっており、最終的に准如の母が秀吉に頼み込んで三男准如の相続が実現する。准如自身も教如とは異母兄弟で折り合いが悪かった。
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本願寺継承
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文禄元年(1592年)11月24日、顕如の示寂にともない本願寺を継承する。12月10日に教如を中心として本願寺で葬儀、七条河原で荼毘が行われている。2日後の12日には秀吉は本願寺の継承を認める朱印状を発行した。ところが本願寺の法主は後継者を指名する際には譲状を作成する慣例となっていたが、顕如の場合それが作成されないまま教如への継承が行われた。その後、石山合戦で篭城した強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した穏健派は重用しなかった為、教団内に対立が起こる。 文禄2年(1593年)閏9月、有馬温泉で静養中の秀吉の下を教如の母である如春尼(顕如の正室)が訪れ、顕如が天正15年12月6日付で作成したとする譲状を提出した。そこには教如ではなく弟の准如を後継に指名した内容が記されていた。
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本願寺継承
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嘉吉2年(1442年)に第1子(長男)順如が誕生する。文安4年(1447年)父と共に関東を訪ね、また宝徳元年(1449年)父と北国で布教する。康正元年(1455年)11月23日、最初の夫人、如了尼が死去する。長禄元年(1457年)6月17日、父の死去に伴い本願寺第8代を継ぐ。留主職(本願寺派における法主)継承にあたり、異母弟蓮照(応玄)を擁立する動きもあったが、叔父で越中国瑞泉寺住持如乗(宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。なお、歴代住職が後継者にあてる譲状の存如筆が現存しないことから、この裁定は如乗によるクーデターともされる。この裁定に対して、蓮照と継母如円尼は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられる。 この頃の本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落しており、青蓮院の本寺であった比叡山延暦寺からは、宗旨についても弾圧が加えられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。
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