本願寺関係者の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
吉良家と関係が深かった京都の西本願寺は刃傷事件や討ち入り後、築地本願寺と書状を交わして吉良の傷の様子や浅野の心情など状況を把握しようとしていた。『江戸江遣書状留帳(えどへつかわすしょじょうのとどめちょう)』には元禄14年(1701年)年1月20日から同15年12月24日の約2年間にわたり、刃傷事件後の吉良の様子や討ち入りへの反応などが記されている。刃傷後は「内匠の乱心」「吉良殿、痛みも軽く、食事も相変わらず」などの記録があり、討ち入り後は「言語に絶える」と落胆している。
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