本願寺教団の東西分裂とは? わかりやすく解説

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本願寺教団の東西分裂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 15:30 UTC 版)

教如」の記事における「本願寺教団の東西分裂」の解説

慶長3年1598年8月18日秀吉没。 慶長5年1600年6月教如大津御坊完成させて遷仏法要を行うと、突如下野国小山にいる徳川家康会い東国向かっている。教如この際石田三成の手の者の襲撃受けたとされ、後に護衛あたった美濃国安八郡門徒に対して感謝礼状送っている。関ヶ原の合戦後の9月20日教如家康大津迎えている。教如家康仲介役は金森長近であったとされる慶長7年1602年)、後陽成天皇勅許背景徳川家康より京都七条烏丸四町四方寺領寄進され七条堀川本願寺一角にある堂舎を、その地に移す。慶長8年1603年)、上野国厩橋群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え東本願寺分立する。 一説によると、若き日三河一向一揆苦しめられた事のある家康が、本願寺勢力弱体化させるために、教如唆して本願寺分裂させたと言われているが、明確にその意図記され史料がないため断定できない現在の真宗大谷派はこの時の経緯について、「教如法主退隠してからも各地門徒名号本尊消息手紙)の配布といった法主として活動続けており、本願寺教団関ヶ原の戦いよりも前から准如法主とする一派教如法主とする一派分裂していた。徳川家康寺領寄進本願寺分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団現状追認したに過ぎない」という見解示している。 東西本願寺分立後世に与えた影響については、『戦国時代には大名匹敵する勢力誇った本願寺分裂し弱体化余儀なくされた』という見方存在するが、前述通り本願寺武装解除顕如准如派と教如派の対立信長秀吉存命の頃から始まっており、また江戸時代同一宗派内の本山脇門跡という関係だった西本願寺興正寺が、寺格巡って長らく対立して幕府介入招いたことに鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立果たしたことは、むしろ両本願寺宗政安定させたとも言える

※この「本願寺教団の東西分裂」の解説は、「教如」の解説の一部です。
「本願寺教団の東西分裂」を含む「教如」の記事については、「教如」の概要を参照ください。

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