本願寺分立とは? わかりやすく解説

本願寺分立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 06:26 UTC 版)

本願寺の歴史」の記事における「本願寺分立」の解説

慶長3年1598年8月18日秀吉歿。 関ヶ原の戦い後かねてから家康によしみを通じていた教如家康にさらに接近する慶長7年1602年)、後陽成天皇勅許背景家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条四町四方寺領寄進され教如七条堀川本願寺一角にあった隠居所から堂舎移しここを本拠とする。 「本願寺分立」により本願寺教団も、「准如十二世宗主とする本願寺教団」(現在の浄土真宗本願寺派)と、「教如十二代宗主とする本願寺教団」(現在の真宗大谷派)とに分裂することになる。 ただし教如身分は死ぬまで公式には「本願寺隠居であって必ずしも本願寺が分立したとは言い切れない。 つまり形の上では七条堀川本願寺境内一角構えていた教如隠居所(本願寺境内三分の一占め阿弥陀堂御影堂もあった)を、六条烏丸に移させたにすぎない東本願寺正式に一派をなすのは次の宣如のときからである。 慶長8年1603年)、上野厩橋群馬県前橋市)の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え本願寺東本願寺)が開かれる七条堀川本願寺の東にあるため、後に「東本願寺」と通称されるようになり、准如継承した七条堀川本願寺は、「西本願寺」と通称されるようになる一説によると、幕府は、准如関ヶ原の戦いに際して西軍についたため准如代えて教如宗主就けようとしたが、教如自身がこれを受けなかった。 この時、本多正信が、「本願寺は、現実には表方准如派)と裏方教如派)に分かれているのだから無理に一本化する要はない」との意見述べたため教如への継職を止め別に寺地与えることに決したという。 正信はさらに「天下御為ニモヨロシカルベク存じ奉る」と続けているから(「宇野新蔵覚書」「事書」)、そこに幕府狙い・つまり本願寺分立させて教団の力を削ぐという意図隠されていたことが読み取れる現在の真宗大谷派は、この時の経緯について、「教如法主退隠してからも各地門徒名号本尊消息手紙)の配布といった法主として活動続けており、本願寺教団関ヶ原の戦いよりも前から准如法主とするグループ教如法主とするグループ分裂していた。 徳川家康寺領寄進本願寺分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団現状追認したに過ぎない」という見解示している。 東西本願寺分立後世に与えた影響については、『戦国時代には大名匹敵する勢力誇った本願寺分裂し弱体化余儀なくされた』という見方存在するが、前述通り本願寺武装解除顕如准如派と教如派の対立信長秀吉存命の頃から始まっており、また江戸時代同一宗派内の本山脇門跡という関係だった西本願寺興正寺が、寺格巡って長らく対立して幕府介入招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立果たしたことは、むしろ両本願寺宗政安定させた可能性否定出来ない。 現在、本願寺派西本願寺)の末寺門徒が、中国地方に特に多い(いわゆる安芸門徒」など)のに対し大谷派東本願寺)では、北陸地方東海地方に特に多い(いわゆる加賀門徒」「尾張門徒」「三河門徒」など)。 また、別院教区設置状況にも反映されている。このような傾向は、東西分派にいたる歴史的経緯よる。

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