本願寺東西分立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/27 07:03 UTC 版)
慶長7年(1602年)、徳川家康が教如に七条烏丸に四町四方の寺地を寄進し、東本願寺が分立する。このため准如が継承した七条堀川の本願寺は、西本願寺と呼ばれるようになる。本願寺の分立にともない、本願寺教団は東西に分裂する。 一説によると、若き日に三河一向一揆に苦しめられた家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如を唆して本願寺を分裂させたと言われているが、明確にその意図が記された史料がないため断定はできない。 現在の真宗大谷派は、この時の経緯について、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主とするグループに分裂していた。徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示している。 東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在するが、前述の通り本願寺の武装解除も顕如・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命の頃から始まっており、また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だった西本願寺と興正寺が、寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させた可能性も否定出来ない。
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