浅井家臣から秀吉家臣へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 16:14 UTC 版)
近江国浅井郡宮部村の小豪族を出自にもち、もとは比叡山の山法師であったと伝わる。桓武平氏土肥氏の後裔で坂田郡醒ケ井の国人土肥真舜の子に生まれ、浅井郡宮部村の湯次神社の僧侶宮部善祥坊清潤の養子となって比叡山で修行をしたのち僧侶となったが、故郷宮部に戻り、近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えるようになる。武勇に優れた一面もあり、長政に従って織田信長との戦いで活躍し、横山城の城将であった羽柴秀吉と対峙したが、元亀3年(1572年)10月、秀吉の調略に応じてその与力となった(『浅井三代記』)。寝返りの証として浅井側の国友城を攻めた際、銃撃を受け負傷している。『信長公記』にはこれより少し早い8~9月に、信長によって宮部村の要害を守るよう命じられたとある。 居城である宮部城は小谷城攻めには欠かせない重要拠点だったこともあり、天正元年(1573年)8月の小谷城落城まで多く勲功を上げている。この時期に秀吉の甥(後の豊臣秀次)を養子としているが、事実上の人質であったようで、浅井氏滅亡後は秀吉の下に返還されている。
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