浅井氏家臣団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 10:06 UTC 版)
浅井氏の家臣団は元々浅井氏の家臣であった譜代系である田辺氏・保多氏・矢野氏・遠藤氏らのほかに、かつて京極氏家臣団の頃に同格であった赤尾氏・赤田氏・海津氏・小山氏・三田村氏・八木氏・布施氏・今井氏・磯野氏・阿閉氏などの名前が挙げられる。譜代家臣の数の少なさは浅井氏の近江支配には大きな問題点であった。少なくとも亮政の頃には国人層による連合制的な面が強く、代を経るごとに支配体制が強化している。磯野員昌を磯野氏本拠の磯野山城ではなく、元は小川氏の居城で百々内蔵助戦死後の佐和山城に置き、浅見氏の居城であった山本山城に阿閉氏を配した天文年間以降には支城在番制に近いものを構想していた様子も伺える。 だが集権的とは言いがたく、長政の代に織田信長との戦いが長期化すると元・京極氏家臣団の中からは浅井氏を離反するものが多く現れた。なお、桑田忠親は永禄年間の浅井領支城数は73ほど検出されているとしている。 赤尾清綱 海北綱親 雨森清貞 遠藤直経 磯野員昌 阿閉貞征 宮部継潤 新庄直頼 小川祐忠 藤堂高虎 野村直隆 浅見道西 安養寺氏種 大野木秀俊 百々盛実 今井定清 井口経親:「湖北四家」の一家。父経元は亮政の重臣であったが亮政の身代わりとして箕浦合戦で戦死し、それに感謝した亮政は経親を重用したと伝わる。経親の妹(従妹と言う説も)は久政の妻(小野殿)となり長政を出産している。子に経長 三田村国定:左衛門大夫。横山城を大野木秀俊らと共に守護していたが、姉川の戦いにおいて戦死。三田村氏は京極氏の根本被官であったが、浅井氏の勢力拡大の際に二つに割れた。浅井側についた三田村氏の三田村定頼が亮政の娘と結婚しているため、親族衆に数える向きもある。国定は定頼の一族であろうが、関係はっきりしない。国定の4人の子が小谷落城の際に織田軍と交戦・戦死しているので、年齢的には久政に近いのであろう。定頼とは兄弟か。なお三田村定頼・光頼父子も小谷落城時に討ち死にしている。 弓削家澄:通称六郎左衛門。姉川合戦にて戦死。弓削氏は京極家の重臣であったが後に浅井氏に仕えた。びわ町に弓削屋敷跡とされる弓削館が残る。 赤田姓:小谷城の戦いにて戦死。赤田氏は京極家の重臣であったが後に浅井氏に仕えた。 脇坂秀勝:通称左介。久政の代から浅井家の家臣。外交文書などを発行する奏者を勤めた。出身地が近い脇坂安明・安治親子と同族であろうが、関係ははっきりしない。 中島直親:横山城主中島日向守直頼の子。通称宗左衛門。1573年、丁野城を攻めた織田軍に攻め落とされた後、記録が途絶える。 片桐直貞:通称孫右衛門・肥後守。小谷城須賀谷を守備していたとされる。後に豊臣秀吉に仕えた。片桐且元の父。 今村氏直:通称孫六郎。1570年、姉川の戦いに参陣し、討死。
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