天文21年(1552年)の戦い (椎津合戦) 武田信政 vs 里見義堯、義弘
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天文7年(1538年)10月7日、足利義明は武蔵へ進出しようと里見義堯を副将にして房総の諸将1万を率いて江戸川まで進出し、2万の北条氏綱・氏康と対峙した(第一次国府台合戦)。この時、足利義明に従軍した義明の重臣の椎津城主、椎津隼人佐(正)らは、相模台城(松戸市岩瀬)から北条軍が江戸川を渡河するのを発見し、水際での迎撃を足利義明に進言したが受け入れられず、第一陣となって200騎を率い敵にあたったが、重傷を負い討死した。「里見系図」、「房總里見軍記」 椎津隼人佐(正)は、「北条史料集」第二巻に「上総国市原郡椎津を本拠とした武士で相馬氏の一族という」と記されている。 「里見系図」義堯 「時ニ天文七年十月四日、北條氏綱、其ノ子新九郎氏康親子、松田尾張守、(中略)ヲ先トシテ、武州豊島郡江戸ニ著城ス。生實義明ハ、子息御曹司、舎弟基頼ヲ大將ニテ、椎津城主椎津隼人、村上、堀江、鹿島郡司逸見山入道を率シ、三千餘人 里見義堯、義弘副將ニテ都合一萬餘人 下総國鵠ノ臺ニ出張シ、兩陣松戸、市川ヲ隔テ夜ヲ明カス。五日黎明ヨリ小田原ノ先陣七百餘騎、川端ニ臨ミ、卯ノ下刻一同ニ瞳ト川ヲ渡ス 椎津隼人佐、鹿島郡司、二百餘騎馳ケ合セ、兩方入リ亂レ戦フ處ニ、椎津、村上深手負ヒテ退ク(中略)天文廿一年壬子十一月四日、總州椎津ノ城ヲ圍ミ、城主眞里谷信政ヲ攻メ殺ス 是ハ去ル天文七年十月ニ椎津隼人佐、鵠ノ臺ニテ討死ノ後、義堯下知シテ彼ノ城ヲ眞里谷ニ授ク」 この戦いで足利義明、弟の基頼、子の義純ともに討死し、房総連合軍は敗北し、小弓公方は滅亡した。しかし、里見義堯軍は積極的に兵を動かさず、下総進出の障害である足利義明を見殺しにして安房に兵を引き上げた。その後10月10日には、北条軍は里見軍を追って君津市の中島まで進出した。 この時、武田信隆、信政父子は相模金沢から中島の北条陣地に参陣すると、上総の諸将は北条氏綱、氏康の太刀影を恐れ、武田信隆に悉く膝を折り、信隆、信政親子は再び椎津城に入城した。「小弓御所様御討死軍物語」 「小弓御所様御討死軍物語」 「眞里谷八郎太郎信隆、一兩年は浪人して、氏綱を頼みて、武蔵の國の傍ら、金澤に在宿して年月を送りしが、此の時小船に乗り、五百餘町の海上を一時に渡海して、陣中へ馳せ参ず。上總の國の諸侍この由を聞くよりも百騎二百騎引き連れて「我も我も」と氏綱の旗本へ時を移さず馳せ來る。然れば眞里谷三日も過ぎざるに五百騎になりにけり。年月は信隆を嫉みつる弟の八郎四郎(信応)、その外親類、同苗、家の子に至るまで、氏綱と氏康の太刀影に恐れて、總領信隆に悉く膝を折る。」 その後、椎津城の背後固めのために、久保田城(袖ヶ浦市久保田字浜宿)、蔵波城(袖ヶ浦市蔵波)が築城された。 天文12年(1543年)には、真里谷一族間の下剋上、笹子城事件が起きたが、武田信隆が鎮圧した。「笹子落草子」、「中尾落草子」 天文20年(1551年)8月2日、武田信隆が病死し(上總武田氏系図)、天文21年(1552年)、2月、里見義堯は、北条方の有吉城(千葉市有吉町)を攻めたが失敗。 これに対し、北条氏康は武田信政と万喜城(夷隅町万木)の土岐頼定(或いは其の子土岐為頼(萬喜弾正少弼)以下同じ。)を味方に引き入れようとした。武田信政は北条と結んだが、土岐頼定は拒絶して里見氏に注進したため、里見義堯、義弘父子は、機先を制して武田信政の椎津城攻略に向かった(「里見代々記、房総軍記」)。 天文21年(1552年)、里見義堯は、土岐頼定、正木時茂らを従え、北進、椎津城の家老武田信常(笹子城主武田信茂の三男)の守る久保田城を包囲した。武田信常は後詰がなく落城必至とみて椎津城に向けて脱出するが、笠上川付近で討死した。 これより先、武田信政は小田原の北条氏に加勢を請い、武田四郎次郎、同丹波、西弾正敦忠ら3百の兵が椎津城に援軍に入城していた(「房總里見軍記」)。 また、佐是城(市原市佐是字武城・内曲輪)の武田国信、笹子城(木更津市笹子)の武田信清ら一族も椎津城に参陣した。 天文21年(1552年)11月4日、里見義堯、義弘は、土岐頼定(万喜城)、正木時茂(大多喜城)を先方に2千の兵で椎津城に押し寄せた。 城の背後から迫った里見軍に対し、武田信政は城から5町ほど押し出して松山を小楯に取って1千の兵で里見軍を迎え撃った(「房總里見軍記」)。 軍勢は、「房總里見誌」では、里見軍3千、武田軍2千(うち北条援軍1千)、「房總軍記」では、里見方は義堯・義弘軍1千8百の他に正木・萬喜軍、武田方は武田軍の他に北条援軍1千とある。 両軍激戦で殺傷すこぶる多かった。武田軍は、武田四郎次郎、同丹波、同左近、信政の舎弟真里谷源三郎信俊、同右衛門佐(宇右衛門)、同左京家長、高山佐衛門、西川彦六、堀江藤左衛門、富田佐平治(岡田佐平太)、大沢甚平、畑右近(左近)、西弾正敦忠、山口新太郎、原田惣蔵時秀らを討ち取られ大敗し、武田信政は城に火を放ち其の子信重、信光らと城中で自刃した。「房総里見軍記」、「房総軍記」「武田氏系譜」 「上總武田氏系図」其三「信政 椎津城主。天文廿一年十一月四日自害。」 この椎津合戦では武田方は多数が討死し、激戦であったことが次の軍記から伺える。 「椎津方の手負死人千四百餘人とかや」(房總軍記) 「此の合戦、今朝辰の下刻より始まり夜の五ツ迄、息も繼がせず攻めかけ、城兵二千餘にて籠りしが何なく亡されて、今は人有りとも見えざりけり。(中略)此の軍に城方一千三百人死人有りとぞ聞えし」(房總里見誌) 「此の合戦千三百人の死人なり。手負い未だ死に切らざる者夥し。」(里見代々記) 「總じて手負、死人千人と云ふ程の大合戦なり。味方にも手負、死人敵の三ケ一もあるべし」(里見九代記) 武田一族は、この戦いに駆けつけ、笹子城の武田信清らを除き、ほとんど戦死した。里見義堯親子は、椎津城に兵をとどめて義堯は久留里城に、義弘は佐貫城に帰城した。この戦で上総の国はほとんど里見義堯の手中に入った。「房総軍記」 椎津城には、守将木曾左馬介が置かれた。「市原郡誌」 この椎津合戦の激戦の様子は、「房総里見軍記」(巻の15 総州椎津合戦の事 幷に落城の事)、「房総軍記」(椎津合戦の事)のほか、「房總里見誌」(上總國椎津城合戰之事)、「里見九代記」(椎津合戦の事)、「里見代々記」にも取り上げられている。 (椎津合戦) 「房總軍記」巻の三 椎津合戰の事 「房總里見軍記」 巻の十五 總州椎津合戦の事。幷に落城の事 「里見代々記」 第五代 義堯公 「里見九代記」 第五 軍の卷 椎津合戦の事 「房總里見誌」上總國椎津城合戰之事
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