天文21年の戦い 武田信政 vs 里見義堯、義弘とは? わかりやすく解説

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天文21年(1552年)の戦い (椎津合戦) 武田信政 vs 里見義堯、義弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 23:30 UTC 版)

椎津城」の記事における「天文21年1552年)の戦い椎津合戦武田信政 vs 里見義堯義弘」の解説

天文7年1538年10月7日足利義明武蔵進出しよう里見義堯副将にして房総諸将1万率いて江戸川まで進出し2万北条氏綱・氏康と対峙した(第一次国府台合戦)。この時、足利義明従軍した義明の重臣椎津城主、椎津隼人佐(正)らは、相模台城(松戸市岩瀬)から北条軍江戸川渡河するのを発見し水際での迎撃足利義明進言したが受け入れられず、第一となって200騎を率い敵にあたったが、重傷負い討死した。「里見系図」、「房總里見軍記椎津隼人佐(正)は、「北条史料集第二巻に「上総国市原郡椎津本拠とした武士相馬氏一族という」と記されている。 「里見系図義堯 「時ニ天文七年十月四日北條氏綱、其ノ子新九郎氏康親子松田尾張守、(中略)ヲ先トシテ武州豊島郡江戸ニ著城ス。生實義明ハ、子息御曹司舎弟基頼ヲ大將ニテ椎津城椎津隼人村上堀江鹿島郡逸見山入道を率シ、三千餘人 里見義堯義弘副將ニテ都合一萬餘人 下総國ノ臺ニ出張シ、兩陣松戸市川ヲ隔テ夜ヲ明カス五日黎明ヨリ小田原先陣七百餘騎、川端ニ臨ミ、卯ノ下一同ニ瞳ト川ヲ渡ス 椎津隼人佐、鹿島郡司、二百餘騎馳ケ合セ、兩方入リ亂レ戦フ處ニ、椎津村上深手負ヒテ退ク(中略天文廿一年壬子十一月四日總州椎津ノ城ヲ圍ミ、城主眞里谷信政ヲ攻メ殺ス 是ハ去ル天文七年十月椎津隼人佐、ノ臺ニテ討死ノ後、義堯下知シテ彼ノ城ヲ眞里谷ニ授ク」 この戦いで足利義明、弟の基頼、子の義純ともに討死し、房総連合軍敗北し小弓公方滅亡した。しかし、里見義堯軍は積極的に兵を動かさず下総進出障害である足利義明見殺しにして安房に兵を引き上げたその後10月10日には、北条軍里見軍を追って君津市中島まで進出した。 この時、武田信隆、信政父子相模金沢から中島北条陣地に参陣すると、上総諸将北条氏綱、氏康の太刀影恐れ武田信隆に悉く膝を折り、信隆、信政親子は再び椎津城入城した。「小弓御所様御討死軍物語」 「小弓御所様御討死軍物語」 「眞里谷八郎太郎信隆、一兩年浪人して、氏綱を頼みて、武蔵の國傍ら金澤在宿して年月送りしが、此の小船乗り五百餘町の海上一時に渡海して、陣中馳せ参ず上總の國の諸侍この由を聞くよりも百騎二百引き連れて我も我も」と氏綱の旗本時を移さず馳せ來る。然れば眞里谷三日も過ぎざるに五百騎になりにけり年月は信隆を嫉みつる弟の八郎四郎(信応)、その外親類同苗家の子に至るまで、氏綱と氏康の太刀影恐れて總領信隆に悉く膝を折る。」 その後椎津城背後固めのために、久保田城袖ヶ浦市久保田浜宿)、蔵波城袖ヶ浦市蔵波)が築城された。 天文12年1543年)には、真里谷一族間の下剋上笹子事件起きたが、武田信隆が鎮圧した。「笹子落草子」、「中尾落草子」 天文20年1551年8月2日武田信隆が病死し上總武田氏系図)、天文21年1552年)、2月里見義堯は、北条方の有吉城千葉市有吉町)を攻めた失敗。 これに対し北条氏康武田信政万喜城夷隅町万木)の土岐頼定(或いは其の土岐為頼(萬喜弾正少弼)以下同じ。)を味方引き入れようとした。武田信政北条結んだが、土岐頼定は拒絶して里見氏注進したため里見義堯義弘父子は、機先を制し武田信政椎津城攻略向かった(「里見代々記、房総軍記」)。 天文21年1552年)、里見義堯は、土岐頼定、正木時茂らを従え北進椎津城家老武田信常(笹子城主武田信茂の三男)の守る久保田城包囲した武田信常は後詰がなく落城必至とみて椎津城向けて脱出するが、笠上川付近討死した。 これより先、武田信政小田原北条氏加勢請い武田四郎次郎、同丹波、西弾正敦忠ら3百の兵が椎津城援軍入城していた(「房總里見軍記」)。 また、佐是城(市原市佐是武城内曲輪)の武田国信笹子城(木更津市笹子)の武田信清一族椎津城に参陣した天文21年1552年11月4日里見義堯義弘は、土岐頼定(万喜城)、正木時茂大多喜城)を先方に2千の兵で椎津城押し寄せた。 城の背後から迫った里見軍に対し武田信政は城から5町ほど押し出して松山小楯に取って1千の兵で里見軍を迎え撃った(「房總里見軍記」)。 軍勢は、「房總里見誌」では、里見軍3千、武田軍2千(うち北条援軍1千)、「房總軍記」では、里見方は義堯義弘軍1千8百の他に正木萬喜軍、武田方は武田軍の他に北条援軍1千とある。 両軍激戦殺傷すこぶる多かった武田軍は、武田四郎次郎、同丹波同左近、信政舎弟真里谷源三郎信俊、同右衛門佐宇右衛門)、同左京家長、高山衛門西川彦六堀江藤左衛門富田佐平治岡田佐平太)、大沢甚平、畑右近左近)、西弾正敦忠、山口新太郎、原田時秀らを討ち取られ大敗し武田信政は城に火を放ち其の子信重、信光らと城中自刃した。「房総里見軍記」、「房総軍記」「武田氏系譜」 「上總武田氏系図」其三「信政 椎津城主。天文廿一年十一月四日自害。」 この椎津合戦では武田方は多数討死し、激戦であったことが次の軍記から伺える。 「椎津の手死人四百餘人とかや」(房總軍記) 「此の合戦今朝辰の下刻より始まり夜の五ツ迄、息も繼がせず攻めかけ、城兵二千餘にて籠りしが何なく亡されて、今は有りとも見えざりけり。(中略此の軍に城方一千三百死人有りとぞ聞えし」(房總里見誌) 「此の合戦千三百人死人なり。手負い未だ死に切らざる者夥し。」(里見代々記) 「總じて手負、死人千人と云ふ程の大合戦なり。味方にも手負、死人敵の三ケ一もあるべし」(里見九代記) 武田一族は、この戦い駆けつけ笹子城の武田信清らを除き、ほとんど戦死した里見義堯親子は、椎津城に兵をとどめて義堯久留里城に、義弘佐貫城帰城した。この戦で上総の国はほとんど里見義堯の手中に入った。「房総軍記椎津城には、守将木曾左馬介が置かれた。「市原郡誌」 この椎津合戦激戦様子は、「房総里見軍記」(巻の15 総州椎津合戦の事 幷に落城の事)、「房総軍記」(椎津合戦の事)のほか、「房總里見誌」(上總國椎津城合戰之事)、「里見九代記」(椎津合戦の事)、「里見代々記」にも取り上げられている。 (椎津合戦) 「房總軍記巻の三 椎津合戰の事 「房總里見軍記」 巻の十五 總州椎津合戦の事。幷に落城の事 「里見代々記」 第五義堯公 「里見九代記」 第五 軍の卷 椎津合戦の事 「房總里見誌」上總國椎津城合戰之事

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