天文17年の総攻撃とは? わかりやすく解説

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天文17年の総攻撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 15:47 UTC 版)

神辺合戦」の記事における「天文17年の総攻撃」の解説

天文17年1548年6月大内毛利軍による神辺城総攻撃が行われる。『陰徳太平記』の"備後国神辺城合戦之事"によれば大内義隆より総大将命じられ陶隆房率い周防国長門国軍勢5,000余騎に、毛利元就毛利隆元吉川元春小早川隆景平賀隆宗宍戸隆家香川光景らの兵を加えた10,000余騎とされる総勢16,000余騎とする説もある。対す神辺城守兵は僅か1,000から1,500であった『陰徳太平記』では、吉川家家督継いで初の戦いとなる元春が、6月23日に1,000余騎を率いて神辺城下に火を放ったところ、杉原左ェ衛門太夫の手300余騎と交戦。これを見た杉原盛重が1,000余騎を率いて元春隊に攻めかかるが、勢い盛んな元春は押し返して城の柵際まで攻め負傷し盛重が兵を退いた伝えている。 『大内氏実録』では6月2日毛利軍山名軍の戦いが、陰徳太平記では6月18日20日総攻撃があったとされる6月戦いについては、元就隆元父子家臣多く感状出しており「城越之鑓(やり)」という表現があることから、城の柵や塀越し攻防展開されたと思われるが、激戦の末に理興はその猛攻凌ぎきった。 7月には、大内義隆から小原隆言弘中隆包に対して青田刈り)を行うよう指示がある。この稲には、安芸西条大内兵に加え備後内郡国人である馬屋原氏なども動員され、かなり大規模に行われた。なお、馬屋原氏への指示毛利氏通じて行われていることから、備後国内陸部国人衆については、元就統率していたと考えられる

※この「天文17年の総攻撃」の解説は、「神辺合戦」の解説の一部です。
「天文17年の総攻撃」を含む「神辺合戦」の記事については、「神辺合戦」の概要を参照ください。

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