天文17年の総攻撃
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天文17年(1548年)6月、大内・毛利軍による神辺城総攻撃が行われる。『陰徳太平記』の"備後国神辺城合戦之事"によれば、大内義隆より総大将を命じられた陶隆房率いる周防国・長門国の軍勢5,000余騎に、毛利元就と毛利隆元・吉川元春・小早川隆景・平賀隆宗・宍戸隆家・香川光景らの兵を加えた10,000余騎とされる。総勢16,000余騎とする説もある。対する神辺城守兵は僅か1,000から1,500であった。 『陰徳太平記』では、吉川家の家督を継いで初の戦いとなる元春が、6月23日に1,000余騎を率いて神辺城下に火を放ったところ、杉原左ェ衛門太夫の手勢300余騎と交戦。これを見た杉原盛重が1,000余騎を率いて元春隊に攻めかかるが、勢い盛んな元春は押し返して城の柵際まで攻め、負傷し盛重が兵を退いたと伝えている。 『大内氏実録』では6月2日に毛利軍と山名軍の戦いが、陰徳太平記では6月18日と20日に総攻撃があったとされる。6月の戦いについては、元就・隆元父子が家臣に多くの感状を出しており「城越之鑓(やり)」という表現があることから、城の柵や塀越しの攻防が展開されたと思われるが、激戦の末に理興はその猛攻を凌ぎきった。 7月には、大内義隆から小原隆言・弘中隆包に対して稲薙(青田刈り)を行うよう指示がある。この稲薙には、安芸西条の大内兵に加え、備後内郡の国人である馬屋原氏なども動員され、かなり大規模に行われた。なお、馬屋原氏への指示は毛利氏を通じて行われていることから、備後国内陸部の国人衆については、元就が統率していたと考えられる。
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