天文13年か16年か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/11 02:21 UTC 版)
「加納口の戦い」の記事における「天文13年か16年か」の解説
『甫庵信長記』、『享禄以来年代記』はこの戦いを天文16年としている。一方、『定光寺年代記』は天文13年とする。美濃国内の立政寺には、天文13年9月付けで織田寛近が掲げた禁制の写しが残る。連歌師谷宗牧の『東国紀行』によれば、宗牧は天文13年10月に那古野城に赴き、美濃で大敗した直後の信秀と対面している。『岐阜県史』は天文16年説を採る。一方、『岐阜市史』は天文13年説を採っている。また、『加納町市』は天文13年と16年の二度、信秀は稲葉城下に攻め入って道三に敗退し、信康始め5千の兵を失ったのは天文16年の方だとしている。
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