小梁川盛宗
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小梁川 盛宗(こやながわ もりむね)
室町時代の盛宗
小梁川盛宗(こやながわ もりむね、永享12年(1440年) - 明応9年10月28日(1500年11月19日)[1])は室町時代の人物。陸奥小梁川氏の祖。伊達持宗の子。中務少輔[2]。小梁川親朝、小梁川宗朝の父。
伊達郡の小梁川の地に分家し、小梁川氏を興した。下記の盛宗は曾孫である。
戦国時代の盛宗
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小梁川 盛宗(こやながわ もりむね、大永3年(1523年)- 文禄4年1月14日(1595年2月22日))は、戦国時代の人物。陸奥小梁川氏当主。伊達氏家臣。伊達晴宗の娘婿。小梁川親宗(尾張守)の子。小梁川宗重の父。中務。小梁川親朝系の人物であり、上記の盛宗は曽祖父にあたる。
伊達晴宗の代から伊達氏に仕え、出羽国置賜郡の高畠城を与えられていた。智勇に優れた人物で、最上氏の武将・里見民部との戦いや大内定綱との戦いで武功を挙げた。しかし1570年に中野宗時が出奔したときは、これを見逃したために義弟である輝宗の怒りを買った。1585年に伊達輝宗が死去すると、老齢を理由に一線から退いて隠居し、以後は伊達政宗の側近として政宗に助言したと言われている。晩年は泥蟠斎と号した。文禄4年(1595年)正月14日、京都で死去した。享年73。法名は心連院泥蟠日雄居士[2]。
脚注
- ^ 『増訂再版伊達略系』第1巻
- ^ a b 上山市市史編さん委員会 編『上山市史 上巻 (原始・古代・中世・近世編)』1980年、382-383頁。doi:10.11501/9570267 。
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