中野宗時・牧野久仲父子の出奔
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「元亀の変」の記事における「中野宗時・牧野久仲父子の出奔」の解説
元亀元年4月、輝宗の元に家臣の新田景綱が中野宗時の孫婿にあたる息子の新田義直を捕らえてきて、中野一族に謀反の疑いがあると告発した。輝宗は景綱と小梁川宗秀に命じて、中野宗時と息子の牧野久仲がいた小松城の攻撃を命じた。突然の攻撃になすすべも無かった中野一族は兵500騎を率いて相馬氏の下に出奔するが、これを阻止しようとしたのは亘理元宗ら一部の家臣のみで、小梁川盛宗・白石宗利・田手宗光らはこれを見逃した。輝宗は宗時を討ち取りたいと考えていたが、中野宗時の旧臣で輝宗に取り立てられてその腹心となっていた遠藤基信が伊達郡・信夫郡にいる一族・家臣の動向が分からないので無思慮に動くべきではないと諫言したためにその意見に従った。また、小梁川盛宗らも晴宗の懇願で赦免されることになった。また、晴宗やその弟の実元は中野一族の赦免を求めたが、中野家はそのまま断絶となった。代わって小松城には輝宗に従った桑折景長が入っている。
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