中野外新田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 09:55 UTC 版)
「中野新町 (名古屋市)」の記事における「中野外新田」の解説
中野外新田(なかのそとしんでん)は、江戸時代の尾張国愛知郡で開発された新田。中野村に隣接することからこの名がついた。1641年(寛永18年)に当地周辺の有力百姓であった鬼頭家の先祖(鬼頭弥五郎なる人物のの5代前)が開発したと言い伝わる。開発から26年後の1667年(寛文7年)に尾張藩士の鈴木嘉十郎という人物の給地として縄入れが行われ、以降全域が鈴木嘉十郎の給地となっていた。頭百姓の鬼頭弥五郎以外は「高持細民」とされたという。中野外新田の領域は現在の名古屋港線から西方に延び、名古屋市立工業高等学校西の「二十番用水」と呼ばれる用水路に及ぶ広大な範囲を含んでいた。町名でいうと現在の中野新町のほか外新町、昭和橋通、福川町、八剱町、福船町、太平通、古新町、八家町、小碓通、昭明町、北江町、法蔵町の各一部が該当する。村落は笈瀬川の下流に当たる中川(中川運河の前身)により東西に分かれており、中川の東が「中島屋敷」「五軒屋敷」、西が「西屋敷」とそれぞれ呼ばれていた。江戸期は農業が主に行われており、カボチャ、トウガン、スイカ、柿などを栽培し、知多郡、津島、横須賀(現在の東海市横須賀町)へ売りに出していたという。畑が多かったため、周辺の丸米野村、熱田新田、八ツ屋村などから人手が来ていた。『寛文村々覚書』によると中野外新田は本田概高200石、反別35町、新田3石、家数16、人口86、馬6。このほかに萱野が1反あった。文政年間になると人口が増加し、家数64、人口243となっていた。
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