堅田本福寺破門事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 08:02 UTC 版)
「享禄・天文の乱」の記事における「堅田本福寺破門事件」の解説
その最初の標的となったのは先述の堅田本福寺である。同寺は末寺の中でも歴史が長く信徒も大勢いたこと、堅田が琵琶湖水運の拠点として栄えていた事から、本願寺に勝るとも劣らない裕福な寺院であった。そのため、表向きはこうした大規模な末寺の権力を抑圧して本願寺に権力を集めることとされたが、実際には大津にあった蓮淳の顕証寺と地域が重複するために門徒・布施の取り合いとなり、常に新興の顕証寺が不利に立ってしまうことに対しての腹いせであったと言われている。 既に実如在世中にも同寺は一度破門を受けているが、その際蓮淳は本福寺の門徒を圧迫して捏造した証拠を真実と認めさせる署名まで行わせたと言われている。その事情が発覚したために実如によって破門はすぐに取り消されている。 その後、本福寺が用意した蓮如・実如が退避していた御坊は「大坂一乱」で対立法主に立てられて追放された実賢が復帰を許された際に与えられて一門寺院の一つとして独立して称徳寺と改称した(後年に慈敬寺と再び改名する)。実賢の死後、同寺の後見もしていた蓮淳は大永7年(1527年)称徳寺が本福寺の門徒を引き抜こうとして一家寺院の本福寺がそれを阻止しようとしたのは「一門一家制」、ひいては本願寺そのものへの反逆であるとして本福寺は再度破門された。これによって本福寺は代々の財産も門徒もことごとく失ってしまった。 更に天文元年(1532年)に3度目の破門を受けた。これは後述の山科本願寺と顕証寺が焼き討ちにされた際に本福寺が救援を出さなかったことを理由にしたものであるが、これは2度の破門で本福寺が完全に荒廃して救援を出せるだけの門徒もいなかったこと、そして後述のように当の蓮淳が真っ先に逃亡している事から見れば明らかに本末転倒であり、逆恨みでしかなかった。天文9年6月6日(1540年7月19日)に本福寺明宗が迫害の果てに72歳で餓死すると、蓮淳は破門解除の条件として称徳寺(慈敬寺)の末寺になるという条件を付けたのであった。これによって本福寺は見せしめのために廃絶寸前にまで追い込まれたのである。
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