堅田正宗から大垣正宗へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 14:00 UTC 版)
元々近江堅田に2万石を領していた堅田広澄が所持していたことから堅田正宗と呼ばれていた。後に広澄より石田三成へ贈られ、さらに三成から妹婿にあたる福原長堯へ贈られた。長堯は関ヶ原の戦いでは大垣城の守備大将を担当し城を堅守していたが、長堯が属する西軍が敗戦したという一報が大垣城に届くと味方の離脱が相次ぎ、次第に戦況が悪化した。そこで、城を攻めていた東軍の水野勝成より、勝成の父である忠重を殺した加賀井重望の子供の引き渡しことを条件に長堯の助命が提案された。長堯はこれに同意して大垣城を開城し、その際に本作も勝成の手に渡ったことから大垣正宗と呼ばれるようになる。なお、長堯は出家して伊勢朝熊山で僧侶として過ごすこととなり、勝成は約束通り長堯の助命を家康に願い出たが、長堯が東軍の他の武将から恨みを買っていたことから、ついに自害を強要された。
※この「堅田正宗から大垣正宗へ」の解説は、「日向正宗」の解説の一部です。
「堅田正宗から大垣正宗へ」を含む「日向正宗」の記事については、「日向正宗」の概要を参照ください。
- 堅田正宗から大垣正宗へのページへのリンク