市沢:鎌倉後期公家社会の構造と「治天の君」
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「後醍醐天皇」の記事における「市沢:鎌倉後期公家社会の構造と「治天の君」」の解説
1988年、市沢は、後醍醐が進めた中央集権政策が、後醍醐個人の性格によるものや時代の流れから浮き出た特殊なものだったとする佐藤・網野説を否定した。つまり、鎌倉時代後期に朝廷の訴訟制度改革が行われたことで、治天の君(院(上皇)も天皇も含む)の権力に頼る事例が多くなり、後醍醐個人の思想・性格とは関係なく、そうした時代の流れが中央集権的な君主の誕生を促したのだとした。かつて後醍醐の特徴とされた抜擢人事も、別に後醍醐に限ったことではなく、対立する持明院統でも行われていたことも指摘した。 市沢が鎌倉時代後期の朝廷訴訟の事例を検証したところ、13世紀末ごろには貴族の家系が増えたために、家督・所領相続の訴訟が多くなってきた。また家系が増えたために貴族人口に対して割り当てられる官位・官職も少なくなり、この争奪戦も問題になっていた。貴族社会において、分家化の進行の圧力と抑制の圧力が拮抗し、衝突が訴訟問題として顕在化するようになったのである。 こうした訴訟の裁許者(判決を下す人物)として力があったのは治天の君である。古くは、「治天の君」という地位そのものに大した権威はなく、治天の君自身がしばしば強大な土地権利所有者であるため、その土地権利に拠る権力に基づいて土地紛争の訴訟を解決したのだと思われていた。しかし、市沢は、実際には土地問題以外の紛争でも治天の君が裁許を主導していることを指摘し、古説に疑問を示した。土地裁判についても、どちらかといえば土地の支配構造(歴史学用語で「職の体系」)の外からそれを庇護・調整する存在であったという。さらに、興福寺などの権門(巨大な権勢を有した半独立勢力)は独自の訴訟機構を有したが、その権威が弱まった時に、治天の君の名で権門の判決にテコ入れをして、権門を助けることがあった。また、南北朝時代には、権門から朝廷への起訴経路ができるが、これも鎌倉時代後期に権門ごとに担当奉行が割り当てられたことの発展型なのではないか、という。朝廷での訴訟問題が増えるにつれ、治天の君が果たす役割も大きくなっていった。 したがって、13世紀末から14世紀初頭という後醍醐天皇が生まれ育った時代には、天皇・上皇はただの土地所有者だった訳ではなく、その「治天の君」という地位そのものに、訴訟問題解決において、相当に強大な権威と権力があった。 さて、皇統が亀山→後醍醐ら大覚寺統と、それに対立する持明院統に分裂した両統迭立というのは、後嵯峨上皇が継承者を指定しないまま崩御しないため起こった偶発的事象であり、そこに強制力はなく、本来ならば自然に解消されるはずの事態である。これが何故が続いたかというと、当時の公家社会の分裂が、皇統の分裂を維持したからである。 たとえば、当初、大覚寺統有利で早期に終結しそうだったのに、持明院統が巻き返した背景には、有力公家の西園寺家内部での分裂が関わっていた。分裂が維持されると、二条派と京極派に分かれた御子左家や、その他にも山科家など、中小規模の公家もどちらの皇統に付くかで分裂するようになり、これが皇統の分裂を後押しさせた。女院領を各統が分割で相続したため、それぞれが荘園領主としても最大の存在となったことも、分裂を加速させた。 こうなれば、両統間で武力的な争いが起こり、普通はそこで解決するはずである。だが、当時最も大きな武力を持っていたのは鎌倉幕府であり、両統の戦いを抑止していたため戦いは起こらず、かえって両統の分裂が深刻化していくことになった。 「治天の君」という地位自体に訴訟解決の権能が備わっていたところに、両統の力が拮抗するようになると、皇統間で治天の君が変わるたびに、裁判の当事者のどちらが有利になるかが変わる、といった事態が起こるようになった。一度下した裁許に対しても、他統によって覆される事例まで出てくるようになり、後醍醐天皇と花園上皇の間で争った例もある。 また、両統は抗争に勝利するため、激しい人材獲得競争を繰り広げた。家格を越えた抜擢人事というと、後世の人間からは、建武政権の印象から後醍醐ら大覚寺統の特徴と思われがちだが、実際は対立する持明院統もほぼ等しく行っていたという。たとえば、後伏見上皇は日野俊光を、光厳天皇も日野資名を抜擢している。これは、同時代人の印象でもそうであったと思われ、『増鏡』の作者は、「久米のさら山」で、抜擢登用された人材について両統等しく記している。 訴訟問題に関する治天の君の権力は大きくなる一方なのに、皇統の交代によってそれに揺れが生じると、矛盾のひずみが大きくなっていった。これを解決するには、相手の皇統を倒すしかないが、その前にまず両統迭立の維持を支持する幕府を倒す必要がある。このようにして見ると、後醍醐に限らず、誰かがいつかは討幕をしなければ解決しない問題だった。ここに、当時たまたま、悪党という幕府に抵抗することを厭わない武士(楠木正成など)が発生していた。つまり、後醍醐天皇は討幕が必要であり、かつそれが可能な時代に、在位していた治天の君だっただけで、別に後醍醐個人が時代から外れた存在だった訳ではない。むしろその逆で、時代の流れこそが後醍醐に討幕を促したのである、という。
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