市沢:鎌倉後期公家社会の構造と「治天の君」とは? わかりやすく解説

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市沢:鎌倉後期公家社会の構造と「治天の君」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)

後醍醐天皇」の記事における「市沢:鎌倉後期公家社会の構造と「治天の君」」の解説

1988年市沢は、後醍醐進めた中央集権政策が、後醍醐個人性格よるもの時代流れから浮き出た特殊なものだったとする佐藤網野説を否定した。つまり、鎌倉時代後期朝廷訴訟制度改革が行われたことで、治天の君(院(上皇)も天皇も含む)の権力に頼る事例多くなり、後醍醐個人思想・性格とは関係なく、そうした時代流れ中央集権的な君主誕生促したのだとした。かつて後醍醐特徴とされた抜擢人事も、別に後醍醐限ったことではなく対立する持明院統でも行われていたことも指摘した市沢鎌倉時代後期朝廷訴訟事例検証したところ、13世紀末ごろには貴族家系増えたために、家督所領相続訴訟多くなってきた。また家系増えたために貴族人口に対して割り当てられる官位・官職少なくなり、この争奪戦問題になっていた。貴族社会において、分家化の進行圧力抑制圧力拮抗し、衝突訴訟問題として顕在化するようになったのであるこうした訴訟裁許者(判決を下す人物)として力があったのは治天の君である。古くは、「治天の君」という地位そのもの大した権威はなく、治天の君自身がしばしば強大な土地権利所有者であるため、その土地権利に拠る権力基づいて土地紛争訴訟解決したのだと思われていた。しかし、市沢は、実際に土地問題以外の紛争でも治天の君裁許主導していることを指摘し古説疑問示した土地裁判についても、どちらかといえば土地支配構造歴史学用語で「職の体系」)の外からそれを庇護調整する存在であったという。さらに、興福寺などの権門巨大な権勢有した半独立勢力)は独自の訴訟機構有したが、その権威弱まった時に治天の君の名で権門判決テコ入れをして、権門助けることがあった。また、南北朝時代には、権門から朝廷への起訴経路ができるが、これも鎌倉時代後期権門ごとに担当奉行割り当てられたことの発展型なのではないか、という。朝廷での訴訟問題増えるにつれ、治天の君が果たす役割大きくなっていった。 したがって13世紀末から14世紀初頭という後醍醐天皇生まれ育った時代には、天皇上皇はただの土地所有者だった訳ではなく、その「治天の君」という地位そのものに、訴訟問題解決において、相当に強大な権威権力があった。 さて、皇統亀山後醍醐大覚寺統と、それに対立する持明院統分裂した両統迭立というのは、後嵯峨上皇継承者指定しないまま崩御しないため起こった偶発的事象であり、そこに強制力はなく、本来ならば自然に解消されるはずの事態である。これが何故が続いたというと当時公家社会分裂が、皇統分裂維持したからである。 たとえば、当初大覚寺統有利で早期終結しそうだったのに、持明院統巻き返し背景には、有力公家西園寺家内部での分裂が関わっていた。分裂維持されると、二条派京極派分かれた御子左家や、その他に山科家など、中小規模公家もどちらの皇統に付くかで分裂するようになり、これが皇統分裂後押しさせた。女院領を各統が分割相続したため、それぞれ荘園領主としても最大存在となったことも、分裂加速させた。 こうなれば両統間で武力的争い起こり、普通はそこで解決するはずである。だが、当時最も大きな武力持っていたのは鎌倉幕府であり、両統戦い抑止していたため戦い起こらず、かえって両統分裂深刻化していくことになった。 「治天の君」という地位自体訴訟解決権能備わっていたところに両統の力が拮抗するうになると、皇統間で治天の君が変わるたびに、裁判当事者のどちらが有利になるかが変わる、といった事態が起こるようになった一度下した裁許に対しても、他統によって覆される事例まで出てくるようになり、後醍醐天皇花園上皇の間で争った例もある。 また、両統抗争勝利するため、激し人材獲得競争繰り広げた家格越えた抜擢人事というと後世人間からは、建武政権印象から後醍醐大覚寺統特徴思われがちだが、実際対立する持明院統もほぼ等しく行っていたという。たとえば、後伏見上皇日野俊光を、光厳天皇日野資名抜擢している。これは、同時代人印象でもそうであった思われ、『増鏡』の作者は、「久米のさら山」で、抜擢登用され人材について両統等しく記している。 訴訟問題に関する治天の君権力大きくなる一方なのに、皇統交代によってそれに揺れ生じると、矛盾のひずみが大きくなっていった。これを解決するには、相手皇統を倒すしかないが、その前にまず両統迭立維持支持する幕府を倒す必要があるこのようにして見ると、後醍醐限らず誰かがいつかは討幕をしなければ解決しない問題だった。ここに、当時たまたま、悪党という幕府抵抗することを厭わない武士楠木正成など)が発生していた。つまり、後醍醐天皇討幕が必要であり、かつそれが可能な時代に、在位していた治天の君だっただけで、別に後醍醐個人時代から外れた存在だった訳ではない。むしろその逆で、時代流れこそが後醍醐討幕促したのである、という。

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