市河家文書以降の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:56 UTC 版)
市河家文書以降の山本勘助に関わる研究は多様なものが見られるが、勘助に関わる確実な記録・史料は『甲陽軍鑑』以外では市河家文書のみであるという状態が続いた。 山梨県の郷土史家・上野晴朗は『甲陽軍鑑』を肯定的に評価し、1985年には『山本勘助』を刊行し、山梨県北巨摩郡高根町上蔵原(現・北杜市高根町)に所在する伝・山本勘助の墓石・屋敷墓を紹介した。上野はこれらの墓石群を中世の五輪塔・宝篋印塔とし、付近には中世土豪の屋敷が所在し、『甲斐国志』に記される八ヶ岳南麓の山本勘助に関わる伝承の記述から、勘助は国信国境に近いこの地域に配置された家臣であるとした。また、1988年には渡辺勝正が『武田軍師山本勘助の謎』を刊行した。渡辺は『萩藩閥閲録』の『遺漏』(江戸後期の天保年間に成立)に収録されている、勘助の子孫を称する長門国三隅の山本家由緒書や武田氏関係文書を紹介し、勘助子孫が毛利家中に滞在し子孫を残したとした。ただし、渡辺の論は『萩藩閥閲録』・『遺漏』などの編纂史料や伝承に拠るもので一次史料に基づいていない点や、紹介している武田氏文書に関しては偽文書である可能性が指摘されている。 1990年代には小和田哲男が戦国時代における「軍師」の役割を検討し、軍師は合戦の吉凶を占う軍配者としての軍師と、主君に対して軍事上の助言を行う参謀として軍師の両面があることを指摘し、勘助は双方の役割を兼ねた「軍師」であったと指摘した。 1990年代後半から2000年代初頭にかけては『戦国遺文 武田氏編』や『山梨県史』の編纂が行われ、武田氏関係文書の徹底的な集成・調査が実施されたが、勘助に関する新出史料は発見されなかった。2006年からは丸島和洋が武田一族・家臣の名が多く記された高野山過去帳の紹介を行っているが、現在でも勘助に関わる名は発見されていない。一方、1990年代には国語学者の酒井憲二が『甲陽軍鑑』の国語学・書誌学的な再検討を行い、これが2000年代には歴史学方面にも波及して、甲陽軍鑑の史料性に関する再評価が提示された。 2007年には井上靖原作のNHK大河ドラマ『風林火山』が制作・放映され、前年から山本勘助に関する文献が多く出版された。
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