釧路市河家文書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/26 17:36 UTC 版)
ウィキソースに市河家文書の原文があります。 山本勘助は江戸時代に成立した軍記物『甲陽軍鑑』に唯一活躍が記されているが、同時代の文書には名前が見られないことから『軍鑑』作者による創作的人物であると考えられていた。 市河文書に含まれる「弘治3年(1557年)6月23日付武田晴信書状」(書簡)は、1557年(弘治3年)の第三次川中島の戦いで、武田晴信(信玄)が市河藤若に宛てた感状で、最後に「猶可有山本菅助口上候」(詳しくは山本管助が口上で申しあげる」と記されており、与力豪族への使者となるに相応しい地位にあったことが確認された。(どの程度の地位 / 身分を想定するかで諸説ある)。 この文書の評価を巡っては、上野晴朗ら勘助の実在性を示す文書として積極的評価する立場がある一方で、武田家中に「山本管助」と称する家臣が存在することを示すのみの文書であるとし、『軍鑑』に記される人物像に関しては不確実とする慎重な立場もある。 弘治3年文書は、『戦国遺文』『山梨県史』に収録されている。また、2008年には安中市ふるさと学習館・山梨県立博物館による群馬県安中市の真下家所蔵文書の調査において、3通の「山本菅助」宛文書を含む武田氏関係文書が確認された。
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