原田宗介
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原田 宗介(はらだ むねすけ、嘉永元年〈1848年〉9月 - 明治42年〈1909年〉9月29日)は、明治の軍人。元薩摩藩士。海軍兵学寮卒[1]。海軍大技監、海軍造兵総監などを歴任した。
生涯
嘉永元年(1848年)9月、薩摩に生まれた[1]。その後、来日した英国軍楽隊長・ジョン・ウィリアム・フェントンの接遇係の一人となった[2]。
明治4年(1871年)にイギリスに留学して海軍技術を学び、明治10年(1877年)に帰国した[1]。明治19年(1886年)、海軍大臣・西郷従道の欧米視察に随行し、明治33年(1900年)に海軍造兵総監となった[1]。
明治42年(1909年)9月29日に死去した。享年62[1]。
日本国歌『君が代』との関係
明治2年(1869年)7月、英国王子が来日する際に、各藩から英語に堪能な人間が選ばれ、薩摩藩からは原田、静岡藩から乙骨太郎乙が接待係に任命された[2]。
準備が進んでいる中、フェントンから「儀式の中で日英両国の国歌を演奏する必要があるが、日本の国歌はいかなるものか」という問い合わせがあった[2]。この時、日本には国歌が存在していなかったため、これについて川村純義に指示を仰いだが、川村は「総て任せてあるのだから手落ちないように処遇せよ」と丸投げした[2]。
原田は乙骨と相談し、江戸時代の毎年元旦に大奥で施行されていた「おさざれ石」の儀式で唄われていた歌に「君が代は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」という歌詞があり、琵琶歌中の蓬莱山という古歌にも同じ歌詞があるということで、これを歌詞に決めた[2]。メロディーは、原田が蓬莱山を歌ったのをフェントンが聴き、採譜した[2]。
ただし、『君が代』の誕生については諸説ある[2]。
脚注
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