礼式曲「君が代」の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 02:18 UTC 版)
ウィキソースに歌詞の原文があります。 1869年(明治2年)4月、イギリス公使ハリー・パークスよりエディンバラ公アルフレッド(ヴィクトリア女王次男)が7月に日本を訪問し、約1か月滞在する旨の通達があった。その接待掛に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが、日本に国歌がないのは遺憾であり、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、みずから作曲を申し出た。 当時の薩摩藩砲兵大隊長であった大山弥助(のちの大山巌)は、大隊長野津鎮雄と鹿児島少参事大迫喜左衛門とはかり、薩摩琵琶歌の「蓬萊山」のなかにある「君が代」を歌詞に選び、2人ともこれに賛成して、フェントンに示した。こうしてフェントンによって作曲された初代礼式曲の「君が代」はフェントンみずから指揮し、イギリス軍楽隊によってエディンバラ公来日の際に演奏された。ただし澤鑑之丞が当時フェントンの接遇係の一人であった原田宗介から聞いた話では、軍上層部にフェントンの意見を問い合わせたところ、会議中で取り合ってもらえず、接遇係たちに対応が任された。この際、静岡藩士の乙骨太郎乙が大奥で行われた正月の儀式「おさざれ石」で使用された古歌を提案し、原田が『蓬莱山』と共通しているとしてこの歌をフェントンに伝えたという経緯となる。 同年10月、鹿児島から鼓笛隊の青少年が横浜に呼び寄せられ、薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)を設立する。フェントンから楽典と楽器の演奏を指導され、妙香寺で猛練習をおこなった。翌年1870年(明治3年)8月12日、横浜の山手公園音楽堂でフェントン指揮、薩摩バンドによる初めての演奏会で、初代礼式曲「君が代」は演奏される。同年9月8日、東京・越中島において天覧の陸軍観兵式の際に吹奏された。しかし、フェントン作曲の「君が代」は威厳を欠いていて楽長の鎌田真平はじめ不満の声が多かった。当時の人々が西洋的な旋律になじめなかったこともあって普及せず。 国歌 (national anthem) は近代西洋において生まれ、日本が開国した幕末の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌の必要性は、1876年(明治9年)に海軍楽長の中村祐庸が海軍省軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」の以下の部分でもうかがえる。 「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」。すなわち、国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場においてなのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。当初は "national anthem" の訳語もなかったが、のちに「国歌」と訳された。ただし、従来「国歌」とは「和歌」と同義語で、漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった。 この意見にもとづき、宮中の詠唱する音節を尊重して改訂する方向で宮内省と検討に入り、フェントンの礼式曲は廃止された。翌年1877年に西南戦争が起こり、その間にフェントンは任期を終えて帰国した。 1880年(明治13年)7月、楽譜改訂委員として海軍楽長中村祐庸、陸軍楽長四元義豊、宮内省伶人長林廣守、前年来日したドイツ人で海軍軍楽教師のフランツ・エッケルトの4名が任命された。採用されたのは林廣守が雅楽の壱越調旋律の音階で作曲したものであり、これは、実際には、廣守の長男林広季と宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律をもとに廣守が曲を起こしたものとみとめられる。この曲に改訂委員のひとりフランツ・エッケルトが西洋風和声を付けて吹奏楽用に編曲した。 改訂版「君が代」は、明治13年10月25日に試演され、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され、礼式曲としての地位が定まった。同年11月3日の天長節には初めて宮中で伶人らによって演奏され、公に披露された。調子は、フラット(♭)2つの変ロ調であった。 海軍省所蔵の1880年(明治13年)の原譜に「国歌君が代云々」とあることから、エッケルト編曲による現行の「君が代」の成立時には「国歌」という訳語ができていたことが知られる。 1881年(明治14年)に最初の唱歌の教科書である『小学唱歌集 初編』が文部省音楽取調掛によって編集され、翌年、刊行された。ここでの「君が代」の歌詞は、現代の「君が代」とは若干異なり、また2番まであった。曲も英国人ウェッブ(英語版)が作曲した別曲で、小学校では当初こちらが教えられた。 第二十三 君が代 一君が代は ちよにやちよに さゞれいしの 巌となりて こけのむすまで うごきなく 常磐(ときは)かきはに かぎりもあらじ 二君が代は 千尋(ちひろ)の底の さゞれいしの 鵜のゐる磯と あらはるゝまで かぎりなき みよの栄を ほぎたてまつる また、陸軍省もエッケルト編曲の「君が代」を国歌とは認めず、天皇行幸の際には「喇叭オーシャンヲ奏ス」と定めており、天覧の陸軍大調練には「オーシャン」が演奏されていた。1882年(明治15年)、音楽取調掛が文部省の命を受けて「君が代」の国歌選定に努めたが、実現しなかった。ウェッブの「君が代」はあまり普及しなかった。雅楽調のエッケルト編曲「君が代」は好評で、天皇礼式曲として主として海軍で演奏された。 1888年(明治21年)、海軍省が林廣守作曲、エッケルト編曲「君が代」の吹奏楽譜を印刷して「大日本礼式 Japanische Hymne (von F.Eckert))」として各官庁や各条約国に送付した。1889年(明治22年)の音楽取調掛編纂『中等唱歌』にはエッケルト編曲の礼式曲が掲載され、1889年12月29日「小学校ニ於テ祝日大祭日儀式ニ用フル歌詞及楽譜ノ件」では『小学唱歌集 初編』と『中等唱歌』の双方が挙げられた。ただし、当初は国内でそれを認めていた人は必ずしも多くなかった。 礼式曲「君が代」の普及は、1890年(明治23年)の『教育勅語』発布以降、学校教育を通じて強力に進められた。1891年(明治24年)、「小学校祝日大祭日儀式規定」が制定され、この儀式では祝祭当日にふさわしい歌を歌唱することが定められた。 ウィキソースに祝日大祭日歌詞竝樂譜の原文があります。 1893年(明治26年)8月12日、文部省は「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示した。ここには、「君が代」のほか、「一月一日」(年のはじめの)、「紀元節」(雲に聳ゆる)、「天長節」(今日の佳き日は)など8曲を制定発表している。「君が代」は、作曲者は林廣守、詞については「古歌」と記され、調子は「大日本礼式」より一音高いハ調とされ、4分の4拍子であるが休符は使用されなかった。 官報第3337号 文部省告示第三號 小學校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌 詞竝樂譜 別册ノ通撰定ス明治二十六年八月十二日 文部大臣井上毅 1897年(明治30年)11月19日の陸軍省達第153号で「『君が代』ハ陛下及皇族ニ対シ奉ル時に用ユ」としており、ここにおいて「君が代」はようやくエッケルト編曲の現国歌に統一された。「君が代」は、学校儀式において国歌として扱われ、紀元節、天長節、一月一日には児童が学校に参集して斉唱され、また、日清戦争(1894年 - 1895年)・日露戦争(1904年 - 1905年)による国威発揚にともなって国民間に普及していった。1903年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」では、「君が代」が一等を受賞している。ただし、明治時代にあっては、国歌制定の議は宮内省や文部省によって進められたものの、すべて失敗しており、法的には小学校用の祭日の歌にすぎなかった。 1912年(大正元年)8月9日、「儀制ニ關スル海軍軍樂譜」が制定され、1914年(大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている。 第一號 君カ代 天皇及皇族ニ對スル禮式及一月一日、紀元節、天長節、明治節ノ遙拜式竝ニ定時軍艦旗ヲ掲揚降下スルトキ 軍艦旗の掲揚降下とは、朝8時に掲揚し日没時に降下する、古くからの世界共通の慣習であり、海上自衛隊でも引き継がれている。軍楽隊が乗船している艦が外国の港湾に停泊している場合は、自国の国歌で掲揚降下をおこなったのち、訪問国の国歌を演奏する習わしとなっている。
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