ベルリンのターミナル駅概史とは? わかりやすく解説

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ベルリンのターミナル駅概史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/26 16:53 UTC 版)

ベルリン中央駅」の記事における「ベルリンのターミナル駅概史」の解説

現在のベルリン中央駅開業するまでの経緯は、政治的に諸般の事情絡んだ非常に複雑なのであるベルリン鉄道網変遷とも密接に関わってくるため、以下にその概略説明するベルリン最初鉄道開業したのは1838年のことで、ベルリンポツダムの間を結んだベルリン側のターミナル駅は、現在は廃止された「ポツダム駅」(Potsdamer Bahnhof) で、ポツダム広場南西設けられた。 その後ベルリンとその郊外や他の都市を結ぶ鉄道が、相次いで開業した。これらのベルリン側のターミナルはいずれも、市の外縁バラバラ設けられた。これは、ベルリン中心部都市化が既に進んでいたためである。しかし、特に貨物輸送の点で不便なため、これらのターミナル駅を結ぶ連絡線が、1850年頃に建設されている。 この貨物連絡線路面設置されていたこともあって、ベルリン市街地拡大に伴い都市交通上のネックとなった。そのために、これを廃止して新たに連絡線建設することになった。それが、1871年から1877年にかけて開通した路線で、現在のベルリン環状線にあたる。当初貨物輸送のみで、1872年から旅客営業始まった。これがベルリンSバーン発祥とされている。環状線多く区間で、旅客貨物列車が走る長距離線と、現在のベルリンSバーンが走る短距離線が併設されていた。 第二次世界大戦の前、ベルリンには、以下のターミナル駅存在した西から反時計回りに、以下の通りである。方面別にターミナル分かれていることは、ロンドンパリモスクワなどの事例とほぼ同様であると考えてよいが、都市貫通する鉄道がある点が他の都市決定的に異なっていた。駅名はいずれ行先方面地名付けた物である。 ポツダム駅 (Potsdamer Bahnhof) ポツダム広場南西ベルリン郊外都市ポツダム因む。 アンハルト駅 (Anhalter Bahnhof)ポツダム駅東側近接現在のドイツ技術博物館」はこの駅に付属する機関庫だった。ドイツ中部のアンハルト地方因む地下Sバーン駅が現存し駅跡には駅建物玄関口モニュメント様に残されている。 ゲルリッツ駅 (Görlitzer Bahnhof)現在の地下鉄ゲルリッツ駅の東側。現在はポーランドとの国境位置する都市ゲルリッツ因むシュレージエン駅 (Schlesischer Bahnhof)現在のベルリン東駅 (Ostbahnhof)。シレジア地方ドイツ名因むシュテティーン駅 (Stettiner Bahnhof)地下Sバーン駅が北駅(Nordbahnhof)に改称され現存。現在はポーランド領の都市であるシュチェチンドイツ名因むレールテ駅 (Lehrter Bahnhof)現在の中央駅(Hauptbahnhof)とほぼ同じ場所。ハノーファー東方小都市レールテ因む1880年代入りベルリンの各路線開業した私鉄順次国有化されプロイセン邦有鉄道 (KPEV:Königlich Preusische Eisenbahn-Verwaltung) に統合された。この頃ベルリン市街東西・南北に結ぶ鉄道路線計画され1882年にはベルリン中心部東西貫通する高架線複々線環状線同様に長距離線と現在のSバーンが走る短距離線)で開業した。これがベルリン市街線 で、ベルリンに関しては「Sバーン」の語源となったとされる。なお、この路線シュレージエン駅、レールテ駅を通るように建設されたが、レールテ駅高架線対し角に位置していたが、に対しシュレージエン駅は東西高架線貫通する形に改造されている。一方南北方向鉄道は、1910年代レールテ駅経由する地下線での構想立案されていたが、技術的な問題や、第一次世界大戦とその敗戦経済的混乱により頓挫した。なお第一次世界大戦後1924年に、全国組織としてのドイツ国営鉄道 (DRG: Deutsche Reichsbahn-Gesellschaft)」が発足しベルリン鉄道も DRG の経営となった1930年代入りヒトラー政権による社会資本充実策、1936年ベルリンオリンピック開催に向けて都市整備一環として南北方向地下線建設再開された。1936年から1939年にかけて、ポツダム駅、アンハルト駅から東西高架線フリードリヒ通り駅経由しシュテティーン駅に至る現在のSバーン南北地下線開通した。しかし長距離線のトンネルは、ヒトラー時代には大ゲルマニア構想に基づく東西南北四大ターミナル駅整備計画立案されたために、全く進展がなかった。 1939年第二次世界大戦勃発し1943年ベルリン大空襲から1945年ドイツ降伏直前ベルリン市街戦にかけて、ベルリン鉄道網壊滅的打撃受けたベルリン市街戦被害大きかったポツダム駅は、終戦後ターミナル駅として機能復活することなく1945年廃止された(ただし、Sバーン南北地下線終戦直前爆破され水没したため不通となり、終戦後一時期Sバーン駅のみ暫定的に営業していた)。 終戦後連合国による占領で、ドイツ全土ベルリン市街はアメリカ、イギリスフランスソ連の4カ国統治となったが、1949年ソ連占領地域で「ドイツ民主共和国東ドイツ)」が建国続いて3カ国占領地域で「ドイツ連邦共和国西ドイツ)」が建国された。ベルリンに関しては、西側3カ国占領地域は「西ベルリン」と称されソ連東ドイツ支配及ばない地域となった。ただし、DRGが運営していたベルリン地上鉄道網は、その後発足したドイツ国営鉄道DR: Deutsche Reichsbahn, 旧東ドイツ国鉄)」が、東西に関係なく、一元的運営していた。 Sバーン網は旧東ドイツ国鉄などの手によって、1950年代中頃には戦前の姿にほぼ戻ったが、6つあったベルリン主要ターミナル駅のうち、西ベルリン側に属したアンハルト駅、レールテ駅ゲルリッツ駅は、国家東西分割により、前者1952年後者2つ1951年それぞれ長距離列車ターミナル駅として機能失いSバーンの駅だけが残った東ベルリン側に属した北駅(シュテティーン駅を改称)も、ゲルリッツ駅のそれと共に東駅シュレージエン駅を改称)にターミナル機能統合し1952年廃止された。また、バルト海沿岸へ向かう路線ターミナルとしてリヒテンベルク駅 (ドイツ語版) が整備され、現在に至っている。東ドイツ国鉄は、ベルリン市外を走るベルリン外環状線上記ベルリン環状線よりもさらに外側環状線)の建設推進し自国内の長距離列車貨物列車西ベルリン通過しないようなルート整備進めた(これが後にベルリンの壁構築を可能とさせる重要な施策となった)。 これにより、東ベルリン側のターミナル駅東駅リヒテンベルク駅の2つとなったが、一方で戦前ターミナル駅全て失った西ベルリン側は、東西高架線にあった中間駅で、西ベルリン中心部に近い「ベルリン動物園駅」が、ターミナル駅機能を受け持つようになり、西ドイツ国内西ベルリンを結ぶ連絡列車拠点となった。(列車自体フリードリヒ通り駅まで運転されていたが、乗客は同駅の西側SバーンUバーンとの直接乗り換えはできなかった。) 1961年8月13日、「ベルリンの壁」の突然の構築により、それまで東ドイツ国鉄東西区別なく一元的経営していたベルリンSバーンは、ついに東西分断された。ただし西ベルリン側のSバーン引き続き東ドイツ国鉄経営したため、「Sバーン運賃鉄条網払われる!」などのプラカード掲げた抗議活動発生するなど市民反感を買うこととなった。更に西側当局東側影響力を嫌い、Sバーン並行するUバーン建設進めたその結果西ベルリン側のSバーン利用客激減し列車本数削減メンテナンス不良のまま細々営業続けていたが、1980年代初頭には西側従業員待遇改善求めストライキ機に全線廃止直前にまで至った。これは1984年西ベルリン地下鉄バス経営するベルリン交通公社 (ドイツ語版)」に経営移管されたことで一応の解決見た。ただし施設の老朽化から、設備更新の上再開されたのは一部路線のみで、環状線などは壁崩壊後まで休止続いた。 また長距離線も西ベルリンへのアクセスルートが1ヵ所に制限され1976年以降2ヵ所)、連絡列車の運転本数合計して10往復満たず現在のEC, IC相当する特急列車運転されていなかった。このため冷戦時代西ドイツ西ベルリンアクセス空路主体で、動物園駅ターミナル駅と言っても実際極めて限定的であった。尚、冷戦時代西ドイツ西ベルリン間の連絡列車東ドイツ領内通過する際には各車両車内東ドイツ国境警備兵が添乗し日本では想像つかないような一触即発緊張感の下で運転されていた。また、この連絡列車東ドイツ内は通過扱いであったが、主要都市駅を通過する際には警備上の理由からホームから最も離れた側線厳重な監視のもとで通過していた。 一方東ベルリン側では、1987年ターミナル駅東駅」を「中央駅 (Berlin Hauptbahnhof)」に改称している。これが初代の「ベルリン中央駅」である。 1989年11月9日の「ベルリンの壁崩壊」に続き1990年10月3日東ドイツ西ドイツ吸収される形で東西ドイツ統合されたが、鉄道に関して1994年民営化の上統合されるまで、東西ドイツの国鉄が別組織として存続した。統一後東西ベルリン分割ズタズタになったベルリン鉄道網復旧進められたが、休止から長い年月経過した区間もあり、環状線1980年に旧西ベルリン側の区間休止)などは、放置されていた駅施設残骸を一旦撤去して更地にした上で新たに作り直す必要があり、鉄道の復興には長い年月莫大な費用がかかったベルリンターミナル駅機能依然として東西高架線上にある東駅動物園駅担ったベルリン南北に貫く長距離線が存在しなかったため、特にベルリン南方北方から来た長距離列車は、ベルリン近づくと、前述外環状線をほぼ1/4周して、東側あるいは西側からベルリン市街に入り東西高架線走って前述東駅動物園駅に至る大迂回ルート走っていた。そのため、時間的なロスが非常に大きく南北を結ぶ長距離線の整備望まれた。また1993年ICEベルリン乗り入れの頃から、旧西ドイツ地域からベルリン乗り入れる列車急増するうになると、東西高架線輸送力早くも限界達していた。1998年5月ベルリン市内の電化完成に伴うダイヤ改正では過密ダイヤ原因とする大混乱発生し混乱収拾に数週間要するような事態となったこのため列車分散させる必要性からも、南北ルート整備急がれることとなった一方で首都ボンからベルリンに移すことがドイツ連邦政府によって決定されベルリン新しターミナル駅中央駅)を建設することも決定した建設場所帝国議会議事堂近く移転する政府機建設併せて十分な土地確保できる、旧レールテ駅跡地決定した東西高架線Sバーンの駅として「Sバーン・レールテ駅 (Lehrter Stadtbahnhof)」が存在したが、新中央駅の前後区間新たに高架線作り直して駅を設置することになった。また1世紀近い懸案であった南北長距離線も、新中央駅を通る形で地下トンネル建設されることになった。これに先立ち初代中央駅」は1998年に再び「東駅」に戻されている。 南北長距離線は、ベルリン南方からズュートクロイツ駅(環状線との交差点設置された駅で、「パーペ通り駅(Bahnhof Papestraße)」を改称)を通り廃止されたアンハルト駅跡地付近から地下入りポツダム広場地下ポツダム広場駅設置されている)を通って新中央駅の地下に至る。ここから北上し地上出て東側方面西側方面分岐してそれぞれ環状線合流する東側方面にはSバーンゲズントブルンネン駅に、従来Sバーン駅のほか長距離専用の駅が新設されている。さらにゲズントブルンネン駅東方にはノルトクロイツ (Nordkreuz) というジャンクション設置され東西北の3方向からの列車長距離線・Sバーンともにいずれの方向進行できるようになっている地図で見ると、新設され南北長距離線形状が、ちょうどキノコの形になるため、南北長距離線計画は "Pilzkonzept"(マッシュルーム・コンセプト)と呼ばれた2002年7月4日新装成った「Sバーン・レールテ駅 (Lehrter Stadtbahnhof)」に、最初Sバーン電車到着し同年9月9日には駅名を「ベルリン中央駅レールテ駅 (Berlin Hauptbahnhof-Lehrter Bahnhof)」と改称した当然のことながらこの時点ではSバーン電車のみが停車した新中央駅の開業は、当初2003年開業予定であったが、付近流れシュプレー川移設駅舎建設技術的難易度の高さ、建設資金大幅増加、などの理由で、工事大幅に遅れた一方で2006年に、ドイツFIFAワールドカップ開催されることになり、開幕まで間に合わせるべく急ピッチで建設進められ2006年5月26日2代目にあたる現在のベルリン中央駅 (Berlin Hauptbahnhof)」が開業同時に南北地下長距離線も開業しベルリン鉄道網運転系統大幅に変化した当日メルケル首相ライプツィヒからのICE特別列車で、南北地下長距離経由開業式典に参加した。この日と翌27日開業記念イベント数多く催され5月28日ダイヤ改正期して正式な運用始まった新中駅・南北地下長離線開業により、ベルリン南側ミュンヘンライプツィヒドレスデン方面)から来る列車と、ベルリン北側ハンブルクロストック方面)から来る列車は、外環状線迂回せずに、直接南北長距離線経由ベルリン入れるようになり、大幅な時間短縮実現した同時に都心部東西南北貫通する路線二重の環状線有機的に結ぶ鉄道網完成したことにより、ヨーロッパ都市では成しえなかった画期的なインフラ整備達成した地下線とはいえ首都中心部南北縦貫線中央駅一挙に建設可能としたのは、ちょうどこの区域東西ベルリン境界ベルリンの壁によって遊休地のままに残されていたことと、前述のように鉄道東ドイツ国鉄管轄だったために西ベルリンといえども鉄道用地の所有権東側帰属していたことが皮肉にも幸いし、旧レールテ駅跡地手つかず廃墟残っていた等、用地買収問題がほとんど発生しなかった要因大きい。 一方で、旧西ベルリン時代からターミナル駅として役割担ってきたベルリン動物園駅は、新中央駅の開業により、夜行列車一部を除く大多数特急列車、特にICEEC・ICの全列車通過することとなった。これに関しては、駅周辺商店住民から反発の声が上がったものの、結果として特急通過駅となり、ターミナル駅として機能大幅に低下することとなったまた、東駅に関して旧西ドイツ地域への列車運転上の起点としてターミナル駅機能残っているが、前述通り南北長距離線ルート変更する列車数多く出たことで、特急列車の停車本数大きく減少している。東ドイツ時代ターミナルだったリヒテンベルク駅も、Sバーン近郊列車停車するみの駅となったが、駅設備維持され臨時列車発着利用されている。

※この「ベルリンのターミナル駅概史」の解説は、「ベルリン中央駅」の解説の一部です。
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