ベルリンと東西ドイツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 14:17 UTC 版)
「ベルリンの歴史」の記事における「ベルリンと東西ドイツ」の解説
1949年5月23日、米英仏3か国占領地区からなるドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し、同日公布された基本法の第23条では、大ベルリンを連邦州の1つとすることがうたわれた。これは同年10月7日に成立したドイツ民主共和国(東ドイツ)も同様であった。当時のドイツ民主共和国憲法では、ドイツ全体を「不可分の共和国」 (unteilbare Republik) と規定し、ドイツ国籍はただ1つのみであり、首都はベルリンである、とした。これは紛れもなく大ベルリン、すなわちベルリン全体を指していた。東ドイツの視点では、大ベルリンはソヴィエト占領地区内にあり、その西部を西側連合国が管理している、とされていた。このため新たに成立した東西ドイツ両国は大ベルリンにかかるあらゆる権利を主張していたが、実際には1990年10月3日まで、いずれかの完全な支配下に置かれることはなかった。 1950年、西ベルリンにおいてベルリン州憲法(ドイツ語版)が施行される。ベルリン州憲法第1条第2項では、ベルリンは1990年以前においてもドイツ連邦共和国(当時、政治的にはひとつのドイツの一部という意味で「西ドイツ」という表現が用いられていた)の1連邦州であるとうたわれていたが、この条文はベルリンが連合国の管理下におかれていたため効力を有することはなかった。1950年12月3日、初のベルリン市議会選挙が実施された。
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