ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 15:09 UTC 版)
「東欧革命」の記事における「ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一」の解説
分断国家であるドイツ民主共和国(東ドイツ)では「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、政治の民主化や市場経済の導入といった改革によって西ドイツとの差異を無くしてしまうことは、東ドイツと言う国家の存在理由の消滅を意味していた。このことを東ドイツ首脳部は知っていたため、ハンガリーやポーランド、さらには後ろ盾であるソビエト連邦で改革が始まっても、その波に抗い続けていた。最高指導者のエーリッヒ・ホーネッカー(ドイツ社会主義統一党(SED)書記長・国家評議会議長)は国家保安省(秘密警察)を使って国民に対する締め付けを強め、1988年にはソ連の雑誌さえ発禁処分にしていた。 しかし、1989年5月にハンガリーがオーストリアの国境を開放すると、ハンガリー・オーストリア経由で西ドイツへ脱出しようと多くの東ドイツ市民が東ドイツから逃げ出すようになった。既に改革を進めていたハンガリー政府は東ドイツ市民の逃亡を助ける形で1989年8月には汎ヨーロッパ・ピクニックを成功させ、さらには9月になると正式に東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させるようになった。 国民の大量出国やライプツィヒの月曜デモ等で東ドイツ国内は混乱していたが、ホーネッカーは事態を楽観視し、改革には背を向け続けていた。10月6日に東ドイツ建国40周年記念式典に参加したミハイル・ゴルバチョフはその際行われたSEDの幹部達との会合で自らの進めるペレストロイカを押し出した演説をしたのに対し、ホーネッカーは自国の社会主義の発展を自画自賛するのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべてSEDの党幹部達を見渡すと、舌打ちをした。これによって、ゴルバチョフが改革を進めようとしないホーネッカーを否定したことがSEDの幹部達の目にも明らかになった。これを機にエゴン・クレンツやギュンター・シャボフスキーらのSED党幹部達はホーネッカーの失脚工作に乗り出し、10月17日にはSEDの政治局会議でホーネッカーの書記長解任動議が可決、翌10月18日にホーネッカーは正式に退任し、失脚した。 ホーネッカーの後継者となったエゴン・クレンツ政権は、1989年11月9日、翌日から施行予定の出国規制緩和策を決定した。その日の夕方、クレンツ政権のスポークスマン役を担っていたシャボフスキーはこの規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。この発表は、東ドイツ政権内部での事務的な手違いによるものだとされる。この記者会見を観た東ベルリン市民がベルリンの壁の検問所に殺到し、殺到した市民への対応に困った国境警備隊の現場指揮官は11月9日の深夜に独断で検問所を開放した。11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁は破壊され、その影響は世界史的に広まった。 12月には社会主義統一党が一党独裁制を放棄し、経済改革や政治の民主化が模索されたがそれは前述したように東ドイツの存在意義の消滅を意味しており、また元々ホーネッカー独裁体制下で疲弊していた東ドイツ経済は国内の混乱などによってさらに疲弊していった。これを受けて翌年の1990年3月に行われた、初の自由選挙では早期の東西統一を主張する勢力が勝利し、新しい東ドイツ政府は7月には東西の通貨統合、8月には東ドイツの西ドイツへの編入を定めた統一条約の締結と、矢継ぎ早に統一への手続きを進めた。こうして、ベルリンの壁崩壊から1年にも満たないうちの10月3日に東西ドイツは統一された。 又、ベルリン問題に一応の決着を見たため、1989年12月3日のマルタ会談では冷戦の終結が宣言された。そして何より、チェコスロバキアやルーマニアにおいて民主化を要求する市民たちを大いに鼓舞した。 詳細は「ベルリンの壁崩壊」および「ドイツ再統一」を参照
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