ホーネッカーの失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 22:28 UTC 版)
「ドイツ社会主義統一党」の記事における「ホーネッカーの失脚」の解説
ゴルバチョフがペレストロイカを開始した頃、東ドイツでも停滞する経済や環境破壊、抑圧的な監視体制への不満から東ドイツ国民の不満は高まっており、政権に対する不満から労働者の勤労意欲は下がり、さらなる経済の低下を招くという悪循環に陥っていた。しかし、隣国ポーランドやハンガリーで民主化が始まった1988年になっても、ホーネッカー政権は改革を否定し続けた。秋にはソ連の改革路線を説く雑誌『スプートニク(ドイツ語版、ロシア語版)』を事実上の発禁処分とした。他の中東欧の社会主義国と違い分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、市場経済の導入や政治の民主化は西ドイツとの差異を無くし、国家の存在理由の消滅、国家の崩壊を意味していたからである。党政治局員・書記のクルト・ハーガーは「わが国では、既に改革は進んでいる。隣人が壁紙を張り替えたからと言って、同じことをする必要はない」と述べていた。 民主化の進むハンガリーで、1989年5月2日にハンガリー社会主義労働者党改革派のネーメト首相がオーストリアとの国境の鉄条網撤去を決定し、鉄のカーテンが綻ぶと、不満を持つ多くの東ドイツ国民が夏の休暇を利用してハンガリーやチェコスロバキア、ポーランドへと出国し、そこからオーストリアや各国の西ドイツ大使館経由で西ドイツへ脱出しようと、東ドイツを去って行った。しかし、ホーネッカーは治安担当書記のエゴン・クレンツ政治局員の進言にも耳を貸さず、自身が急性胆のう炎で療養中だったこともあって、この問題に対処しようとしなかった。 8月中旬には、ハンガリーには20万人もの東ドイツ国民が滞留するようになっていた。こうした状況の中、ハンガリー民主フォーラムの活動家、オーストリア・ハンガリー帝国最後の皇太子でハプスブルク・ロートリンゲン家当主のオットー・フォン・ハプスブルク、さらにハンガリー社会主義労働者党改革派の党幹部ポジュガイ・イムレ(ハンガリー語版、英語版)や首相のネーメトらは8月19日にオーストリア国境付近のショプロン近郊で汎ヨーロッパ・ピクニックを開催し、600人以上の東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツに出国させた。さらにハンガリー政府は西ドイツ政府などとも密かに協議の上、9月11日には東ドイツ国民に対してオーストリアへの出国を正式に認め、西側へ逃亡しようとする東ドイツ国民を送還するという東ドイツとの協定を破棄した。療養から復帰したホーネッカーは、既に国外にいる東ドイツ国民が西ドイツへ出国するのを容認する一方で、10月3日にはチェコスロバキアとの国境を閉鎖し、チェコスロバキア、ハンガリー経由での逃亡を阻止しようとした。 一方、残った東ドイツ国民による国内での抗議行動は高まり、特にライプツィヒでは月曜デモに多くの市民が参加し、9月10日には反政府市民団体「新フォーラム」が結成された。党外の抗議運動、さらには党内の下部組織からも改革を求める声が上がっており、一部の党幹部は危機感を強めていた。しかし、ホーネッカーは10月7日の建国記念40周年記念式典を無事執り行うことに気を取られ、重大な国内状況に対処しようとはしなかった。 10月7日、ゴルバチョフら東側諸国の首脳を迎えて建国40周年記念式典が開催されたが、その際に行われたゴルバチョフとSED政治局員達の会合でゴルバチョフがペレストロイカについて報告し、「遅れて来るものは人生に罰せられる」とホーネッカー批判ともとれる言葉を述べたのに対し、ホーネッカーは自国の社会主義の発展をまくし立てるのみであった。これを聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じった表情で周囲を見回すと舌打ちをした。改革を行おうとしないホーネッカーをゴルバチョフが支持していないのは、他の政治局員たちの目にも明らかだった。帰り際にゴルバチョフは、クレンツらに「行動したまえ」とホーネッカーを退陣させるよう示唆した。 これを機にクレンツやギュンター・シャボフスキーら党幹部はソ連指導部とも連絡を取りながら、ホーネッカーの退陣工作を進めていった。17日の政治局会議でヴィリー・シュトフ首相からホーネッカーの解任動議が提出されると、ホーネッカー以外の全員がこれに賛同したため、ホーネッカーは自身の解任動議を中央委員会に出さざるを得なくなり、18日の中央委員会総会で正式に退任した。ウルブリヒトがソ連の不興を買って権力を奪われた時と同様、ウルブリヒトから権力を奪ったホーネッカーもまたソ連指導部の不興を買って政権を追われることになった。 東ドイツ建国40周年式典に出席したホーネッカーやゴルバチョフら東側諸国の首脳陣 共和国宮殿で行われた建国40周年記念晩餐会で、東側諸国の首脳らを前に挨拶をするホーネッカー。これが彼にとって最後の晴れ舞台となった(1989年10月7日) 10月16日のライプツィヒ月曜デモ。
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