ホーネッツネスト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 16:12 UTC 版)
「シャイローの戦い」の記事における「ホーネッツネスト」の解説
北軍主力の防衛線では、午前9時頃から、プレンティスとW・H・L・ウォレスの師団が「ホーネッツネスト」と渾名される陣地を構築し守った。そこは今では「サンクンロード」(窪んだ道)と一般に呼ばれる道路沿いだったが、その名前を正当化する痕跡はほとんど残っていない。南軍は単純にその陣地を迂回せずに数時間も攻撃し、この攻撃中に大きな損失を蒙った。ホーネッツネストの右翼と左翼の北軍は後退を強いられ、プレンティスの陣地は前線の中で突出したようになった。部隊間の連携がお粗末であり、個別の指揮官の決断だけで部隊が後退した。南軍の圧力は、その陣地で一番大きな部隊を指揮していたウォレスが致命傷を負ったことで増加した。連隊が解体され、中隊は分解した。しかし、攻撃側が50門以上の大砲を集め陣地を囲むようにしてできた砲撃を加えてやっと、7時間死守されたホーネッツネストが落ちた。北軍の残兵にとって大きな陣地が占領されたが、その犠牲によってグラントにはピッツバーグ・ランディングで最後の防衛線を布く余裕ができた。 ホーネッツネストを奪ったときに起きた問題の一部は、南軍にとって別の痛手があったことだった。ジョンストン将軍が北軍の左翼攻撃を指揮しているときの午後2時半頃に致命傷を負った。ジョンストンは自分の足の傷が重傷ではないと考え、その個人的な軍医を他の負傷兵の手当に行かせたが、その軍医のいない間に、ジョンストンは出血多量で死んだ。その長靴は出血で溢れていた。実際に銃弾は膝窩動脈を切断していた。このことは南軍にとって深刻な損失だった。ジェファーソン・デイヴィスは、自分の手の内でアルバート・ジョンストンが最も効果的な将軍だと考えた(この時点はロバート・E・リーが南軍の傑出した将軍として浮上する2ヶ月前だった)。ボーリガードが指揮を引き継いだが、後方にいるその場所からは戦線の配置についてほんのぼんやりとした考えしか持ち得なかったと思われる。ボーリガードは軍隊の士気を失うことを避けるためにジョンストンの死を秘密にしておくことにしてその死骸を包んでおく様に命じ、続いてホーネッツネストに対する攻撃を再開させた。これは戦術的な誤りだったと思われる。北軍の両翼はゆっくりと退いてピッツバーグ・ランディングの周りに半円を描くようになっており、もしボーリガードが部隊を北軍の側面に集中させておれば、北軍を打ち破ることができ、ホーネッツネストの突出部は思いのままだったかもしれない。
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