ホーネッカー時代
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「ドイツ社会主義統一党」の記事における「ホーネッカー時代」の解説
ウルブリヒトに代わって第一書記となって実権を掌握したホーネッカーは、SEDの青年組織である自由ドイツ青年団(FDJ)の初代議長(1946-1955)であり、1950年には政治局員候補、58年には政治局員となっていた。ソ連の支持を受けてウルブリヒトを失脚させると、第一書記となった翌月には国防評議会(ドイツ語版)議長を兼ねた。1976年には国家元首である国家評議会議長を兼ね、国家・党・軍のトップを掌握した。 権力を掌握したホーネッカーはまず、前任者ウルブリヒトがソ連から距離を置こうとしていたのを改め、ソ連のブレジネフ政権との関係強化を図った。その上で、西ドイツとの関係改善を進め、1971年9月にはベルリン4ヶ国協定が締結されて西ドイツと西ベルリン間の自由な往来が保障され、1972年には東西ドイツ基本条約が締結された。これによって、東ドイツは外交的孤立から脱却し、1973年には国際連合へ加盟、1974年にはアメリカとも国交を樹立するなど、国際的な認知度を高めていった。一方、西ドイツとの関係は最終的には東西統一を目指していたウルブリヒトとは違い、「社会主義的民族の国であるドイツ民主共和国は、資本主義的民族の国であるドイツ連邦共和国とは違う」という論理で、二国の分離状態を正当化するようになった。 経済政策ではウルブリヒト時代の経済成長を背景に「経済政策と社会政策の両立(ドイツ語版)」を唱え、新経済システムで分権化した経済の集権化(コンビナート化の進展)、国民の生活用品・耐久消費財の普及や住宅建設などを進めた。これによって基礎的な食糧自給を達成し、肉の消費量では東側諸国で最も多くなった。しかし、消費生活物資の増大は西側からの輸入の増加を招き、ひいては外貨の獲得を必要とした。一方で、東ドイツの労働生産性は低く、二度の石油危機によるソ連からの原油価格の高騰は東ドイツ経済を苦しめるようになった。また、1980年代以降西側諸国では従来の重化学工業主体の経済から情報技術分野などへの経済転換、サッチャリズムやレーガノミクスなどによる新自由主義経済などへの転換が行われていたが、社会主義諸国ではこうした転換に対応できなかった。これを乗り切るため、ホーネッカー政権は政治面では西ドイツからの分離を進める一方で、経済的には西ドイツとの交易関係を強め、1980年代には西ドイツからの莫大な借款供与を受けて国民の求める消費生活を維持しようとした。経済成長と消費者の満足を同時に追求したホーネッカーの理想主義的な経済政策は、環境破壊と莫大な対外債務の増加をもたらし、財政の破綻へと繋がっていった。1989年には対外債務は206億ドルに達していた。 文化政策では当初は開放的な政策を取り、文化人・作家・芸術家に対する規制が緩和されたが、1970年代後半からは反体制派の歌手ヴォルフ・ビーアマンの追放や党の政策に反対する知識人の自宅軟禁などの締め付けが行われ、国家保安省による国民監視体制が強化された。党エリートのノーメンクラトゥーラによる支配が強固なものとなり、ホーネッカー体制での東ドイツは安定する一方で、社会は停滞していった。1983年頃にはSEDの党員数は270万人になっていたが、党員の半数以上は消極的に加入した人達であった。この頃になるとSEDによる支配が徹底され、SEDの党員でない者は職場で出世できなかったからである。 1985年、ソ連ではゴルバチョフソ連共産党書記長によって「ペレストロイカ」「グラスノスチ」が始まり、政治・経済の改革が始まったが、ホーネッカーはこの変化を受け入れようとしなかった。 第一書記に就任した1971年の第8回党大会で、ブレジネフと握手するホーネッカー。 西ドイツのシュミット首相と会談するホーネッカー ホーネッカー時代のSED党員証 1978年のSED機関紙「ノイエス・ドイチュラント」(新しいドイツ)
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