ウルブリヒト時代
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「ドイツ社会主義統一党」の記事における「ウルブリヒト時代」の解説
1949年10月、ソ連占領地区がドイツ民主共和国(東ドイツ)となると、ピークが国家元首である大統領、グローテヴォールが首相となったが、党および国家の実権は1950年に書記長(後に第一書記)となったウルブリヒトが掌握した。 東ドイツは社会主義統一党(SED)とCDU、LDPD、そしてソ連がCDUとLDPDに対抗させるために結成させた民主農民党(DBD)・国家民主党(NDPD)の5党による人民民主主義の形態をとったが、CDUやLDPDの反共的な党員は逮捕されるか西ドイツへの亡命を余儀なくされ、1950年代以降、SED以外の4党はSEDの衛星政党となっていった。 1952年には「社会主義の建設」が謳われ、農業の集団化、重工業の推進などソ連型社会主義のモデルに従った社会主義建設が急速かつ強硬に進められ、労働者のノルマも引き上げられた。これに反発した労働者は1953年6月17日にピーク、グローテヴォール、ウルブリヒトらの解任を要求し東ベルリン暴動を起こしたが、東ドイツ政府はソ連軍の力を使って鎮圧した。これによってウルブリヒトはソ連によって解任されそうになったが、解任すれば暴動は正しかったかのような印象を与えかねないため、ウルブリヒトは留任し、逆に改革派の幹部や地方組織の幹部の多くが追放されたため、ウルブリヒトは権力基盤の強化に成功した。政治的奸智に長け、駆け引きが巧いウルブリヒトは一流のスターリン主義者であり、政敵を次々に排除していった。SED結成時に旧KPDからは7人が最高指導部入りしたが1953年にはピーク、ウルブリヒトの他には1名が残っただけで、それ以外は追放された。ただし、ウルブリヒトは政敵を追放したり刑務所に送り込んだりしたものの、スターリンやチェコスロバキアのスターリン主義者クレメント・ゴットワルトのように政敵を死刑にするのはつとめて避けている。 1956年のフルシチョフによるスターリン批判をきっかけに東欧社会主義国ではハンガリー動乱などが発生しているが、既に東ベルリン暴動を強硬手段で弾圧していた東ドイツの体制は動揺せず、ウルブリヒトはフルシチョフ時代になっても権力を維持し、強硬な社会主義建設・農業集団化が続けられた。1960年にピーク大統領が死去するとウルブリヒトは大統領に替えて国家評議会を設置し、自ら議長となって国家元首を兼ねた。 1961年にはストライキが法的に禁じられるなど、労働者への締め付けも強まっていった。このため、東ドイツから西ドイツへの労働力流出が絶えず、1949年の東ドイツ建国から1961年までの間に約270万人の東ドイツ市民が西側へ移住していった。 このため1961年8月、ウルブリヒトは東西ベルリンの境界を封鎖し、後に壁を建設した。これにより労働力の流出は抑制された。一方1963年からウルブリヒトは一部に市場経済原則を適用した経済改革「新経済システム(ドイツ語版、英語版)」を導入した。これにより東ドイツ経済は成長し、東欧社会主義圏では最高の経済水準を持つ工業国へと変貌を遂げた。 転機を見極めるのに長けたウルブリヒトはソ連でフルシチョフが失脚し、ブレジネフが指導者となった後もブレジネフ政権との関係維持に成功し、政権を維持した。 1968年には憲法を改正し、「労働者階級とマルクス・レーニン主義党(SED)の指導の下に社会主義が実現される」とし、正式にSEDが国家を指導することを明文化している。 しかし、経済成長に自信を持ったウルブリヒトは次第に東ドイツが社会主義工業国のモデルであると東欧諸国に誇示するようになった。これは社会主義国の盟主であるソ連指導部の不興を買った。しかも、ウルブリヒトの経済政策は党幹部ではなく、企業の自己裁量権を拡大し、専門家に経済政策の重要決定権を委ねるものであったため、党内からも反発の声が高まり始めた。さらに、ウルブリヒトはソ連やポーランドが西ドイツのブラント首相の東方外交に賛同して関係改善をすることに反対したため、ソ連指導部との関係は悪化した。 1970年には政治局員のエーリッヒ・ホーネッカーとクルト・ハーガー(ドイツ語版)が、ホーネッカーに権力を移譲するようウルブリヒトに迫った。ウルブリヒトは抵抗したがホーネッカーはモスクワとも協議して圧力をかけ、結局ウルブリヒトは1971年3月に滞在中のソ連から辞意を表明し、5月に行われた中央委員会総会でウルブリヒトは高齢を理由に第一書記から退任した。 ウルブリヒトは、国家元首である国家評議会議長の座には留まり、また「党議長」の称号が与えられたが、それは名誉的なものに過ぎなかった。ウルブリヒトは1973年に国家評議会議長在任のまま死去したが、彼の名を冠した街路や工場、公共施設は短期間のうちに改名され、社会からウルブリヒトの名は消されてしまった。 SED中央委員会本部(元ドイツ帝国銀行)。ドイツ再統一、ベルリン遷都後は外務省が使用している 1963年の第6回党大会で握手するフルシチョフとウルブリヒト 1971年の第8回党大会を訪れたフサーク・チェコスロバキア共産党第一書記と、ホーネッカー、ウルブリヒト。
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