ウルブリヒト時代とは? わかりやすく解説

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ウルブリヒト時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 22:28 UTC 版)

ドイツ社会主義統一党」の記事における「ウルブリヒト時代」の解説

1949年10月ソ連占領地区ドイツ民主共和国東ドイツとなるとピーク国家元首である大統領グローテヴォール首相となったが、党および国家実権1950年書記長(後に第一書記となったウルブリヒト掌握した東ドイツ社会主義統一党(SED)とCDULDPD、そしてソ連CDULDPD対抗させるために結成させた民主農民党(DBD)・国家民主党(NDPD)の5党による人民民主主義形態をとったが、CDULDPD反共的な党員逮捕される西ドイツへの亡命余儀なくされ、1950年代以降SED以外の4党はSED衛星政党となっていった。 1952年には「社会主義建設」が謳われ農業集団化、重工業推進などソ連型社会主義モデル従った社会主義建設が急速かつ強硬に進められ労働者ノルマ引き上げられた。これに反発した労働者1953年6月17日ピークグローテヴォールウルブリヒトらの解任要求し東ベルリン暴動起こしたが、東ドイツ政府ソ連軍の力を使って鎮圧した。これによってウルブリヒトソ連によって解任されそうになったが、解任すれば暴動正しかったのような印象与えかねないため、ウルブリヒト留任し逆に改革派幹部地方組織の幹部多く追放されたため、ウルブリヒト権力基盤強化成功した政治的奸智長け駆け引き巧いウルブリヒト一流スターリン主義者であり、政敵次々排除していった。SED結成時に旧KPDからは7人が最高指導部入りしたが1953年にはピークウルブリヒトの他には1名が残っただけで、それ以外追放された。ただし、ウルブリヒト政敵追放した刑務所送り込んだしたものの、スターリンチェコスロバキアスターリン主義クレメント・ゴットワルトのように政敵死刑にするのはつとめて避けている。 1956年フルシチョフによるスターリン批判きっかけ東欧社会主義国ではハンガリー動乱などが発生しているが、既に東ベルリン暴動強硬手段弾圧していた東ドイツ体制動揺せず、ウルブリヒトフルシチョフ時代になって権力維持し強硬な社会主義建設農業集団化続けられた。1960年ピーク大統領死去するウルブリヒト大統領替えて国家評議会設置し、自ら議長となって国家元首兼ねた1961年にはストライキ法的に禁じられるなど、労働者への締め付け強まっていった。このため東ドイツから西ドイツへの労働力流出絶えず、1949年東ドイツ建国から1961年までの間に約270万人東ドイツ市民西側移住していった。 このため1961年8月ウルブリヒト東西ベルリン境界封鎖し、後に壁を建設した。これにより労働力流出抑制された。一方1963年からウルブリヒト一部市場経済原則適用した経済改革新経済システムドイツ語版英語版)」を導入した。これにより東ドイツ経済成長し東欧社会主義圏では最高の経済水準を持つ工業国へと変貌遂げた転機見極めるのに長けたウルブリヒトソ連フルシチョフ失脚しブレジネフ指導者となった後もブレジネフ政権との関係維持成功し政権維持した1968年には憲法改正し、「労働者階級マルクス・レーニン主義党(SED)の指導の下に社会主義実現される」とし、正式にSED国家指導することを明文化している。 しかし、経済成長自信持ったウルブリヒト次第東ドイツ社会主義工業国モデルであると東欧諸国誇示するようになった。これは社会主義国盟主であるソ連指導部不興買った。しかも、ウルブリヒト経済政策党幹部ではなく企業自己裁量権拡大し専門家経済政策の重要決定委ねるものであったため、党内からも反発の声が高まり始めた。さらに、ウルブリヒトソ連ポーランド西ドイツブラント首相東方外交賛同して関係改善をすることに反対したためソ連指導部との関係は悪化した1970年には政治局員エーリッヒ・ホーネッカーとクルト・ハーガー(ドイツ語版)が、ホーネッカー権力移譲するようウルブリヒト迫ったウルブリヒト抵抗したホーネッカーモスクワとも協議して圧力をかけ、結局ウルブリヒト1971年3月滞在中のソ連から辞意表明し5月行われた中央委員会総会ウルブリヒト高齢理由第一書記から退任したウルブリヒトは、国家元首である国家評議会議長の座には留まり、また「党議長」の称号与えられたが、それは名誉的なものに過ぎなかった。ウルブリヒト1973年国家評議会議長在任のまま死去したが、彼の名を冠した街路工場公共施設短期間のうちに改名され社会からウルブリヒトの名は消されてしまった。 SED中央委員会本部(元ドイツ帝国銀行)。ドイツ再統一ベルリン遷都後は外務省使用している 1963年第6回党大会握手するフルシチョフウルブリヒト 1971年第8回党大会訪れたフサーク・チェコスロバキア共産党第一書記と、ホーネッカーウルブリヒト

※この「ウルブリヒト時代」の解説は、「ドイツ社会主義統一党」の解説の一部です。
「ウルブリヒト時代」を含む「ドイツ社会主義統一党」の記事については、「ドイツ社会主義統一党」の概要を参照ください。

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