ベルリンの壁崩壊とドイツ統一のなか、SEDからPDSへとは? わかりやすく解説

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ベルリンの壁崩壊とドイツ統一のなか、SEDからPDSへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/07 08:05 UTC 版)

民主社会党 (ドイツ)」の記事における「ベルリンの壁崩壊とドイツ統一のなか、SEDからPDSへ」の解説

前身は、統一前東ドイツ独裁政党だったドイツ社会主義統一党(SED)。ベルリンの壁崩壊象徴される東ドイツ民主化運動盛んだった1989年12月16日に、SED社会主義統一民主社会党(SED-PDS)と改称同時に綱領から独裁色を払拭した。改名当時初代党議長(党首)はグレゴール・ギジ。さらに東ドイツ初の自由選挙前に1990年2月4日党名民主社会党Partei des Demokratischen Sozialismus、PDS、「民主社会主義党」、「民主的社会主義党」とも訳される)と再び変更ドイツ統一までに計二回、党名変更していた。この間ハンス・モドロウ首相政権支えた1990年3月18日行われた東ドイツ自由選挙ではギジ党首先頭に16.1%の得票得て400議席66議席獲得したが、ドイツキリスト教民主同盟第1党となりロタール・デメジエール首相となった連立政権参加できず、東ドイツ建国以来初め野党転落することとなり、急速なドイツ再統一の波にブレーキをかけることができなかった。さらに再統一後東ドイツ人民議会メンバー加えた暫定的な連邦議会ではPDSに対してシュタージ東ドイツ国家保安省疑惑が持ち上がるなど苦し立場におかれ、続くドイツ統一後1990年ドイツ連邦議会選挙(初の東西ドイツ統一総選挙)では、当初PDSは全ドイツレベルでは5%ライン及ばず議席を失うことが確実視されていた。しかし選挙前連邦憲法裁判所判断経て、この選挙一度限って旧西ドイツ旧東ドイツではそれぞれ別々に5%ライン適用することとなり、1990年12月2日行われた総選挙においてPDSは全ドイツでは2.4%にとどまったものの、旧東ドイツでのみ5%を突破し辛うじてドイツ連邦議会17議席確保することとなった

※この「ベルリンの壁崩壊とドイツ統一のなか、SEDからPDSへ」の解説は、「民主社会党 (ドイツ)」の解説の一部です。
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