国共内戦と国連代表権問題
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「台湾国民政府」の記事における「国共内戦と国連代表権問題」の解説
二・二八事件が起こった1947年には、中国大陸で国共内戦が起こっていた。1949年になると、毛沢東率いる中国人民解放軍が中華民国の首都・南京を制圧し、中華民国政府は崩壊状態に陥った。しかし、その際に中華民国政府の前総統・蔣介石が崩壊状態にある中華民国政府を指揮し、政府は、広州、重慶、成都を経た上で台湾の台北市に移転した。 その後、蔣介石は中華民国政府を再組織した上で、翌1950年3月1日に総統職に復職し、台湾国民政府の活動を本格的に開始した。この過程で共産党の脅威を抵抗するために台湾は全域が戒厳状態とされ(1948年の「動員戡乱時期臨時条款」)、台湾の住民は政治的抑圧を1987年まで受け続けることとなった。一方、大陸では1949年10月1日に中国共産党によって中華人民共和国が成立した。 中華民国政府は中華人民共和国の成立を共産党の「反乱」と定義し、武力による大陸部の領土奪還(大陸反攻)を目指した。そのために蔣介石は中華民国政府の統治が及ぶ範囲で戒厳令を敷き、共産主義者や政府・中国国民党に反対する人々を投獄するなどの抑圧政策を行う一方で、国内の計画的な経済建設に着手して国力を蓄積していった。同時に、中華民国政府は「中国を統治する唯一の合法(正統)な政府」としての国際的地位を主張し、中華人民共和国と「中国を統治する政府」という国際的地位を巡って対立し続けた。その際に、中華民国政府と中華人民共和国政府は、「中国を統治する政府」としての観点から、相手政府が支配している領土の領有権を互いに主張しあったため、両政府の間では台湾海峡を挟んだ軍事的緊張が今なお続いている。 詳細は「台湾問題」を参照 また、中華民国政府は国際社会における「中国を統治する唯一の合法(正統)な政府」としての地位を維持することに腐心しており、大幅に譲歩をした上で日本国と中華民国の平和条約を締結する一方で、中華人民共和国と国交を締結した国とは即座に国交を断絶するという「漢賊不両立(中国語版)」の政策を採ってきた。 だが、1971年に国連総会で決議された2758号決議(アルバニア決議)(国府追放・北京政府招請」のアルバニア案が基)によって、国際連合での「中国」の代表権が中華民国政府から中華人民共和国政府へと移った。このアルバニア決議に伴い、日本国やアメリカ合衆国などは中華民国政府に対し、「台湾」の名で国連に留まるよう説得したが、例に漏れず「漢賊不両立」の言い分の元に拒否し、中華民国は国連から脱退する事を宣言した。その事から、中華民国政府は「中国を統治する政府」として国際的に承認されなくなり、1972年9月の日中国交正常化に伴う日華平和条約の破棄によって日本との外交関係を失うなど、国際的な孤立状況に次第に陥ることとなった。
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