国共内戦での活動とは? わかりやすく解説

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国共内戦での活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 01:25 UTC 版)

夏威」の記事における「国共内戦での活動」の解説

1946年民国35年)に夏威は第8綏靖司令官任命され安徽省新広西派軍を率いて国共内戦備えることになった1948年民国37年8月、夏は李品仙後任として安徽省政府主席に任ぜられ、9月華中剿匪副総司令兼ねた。夏は軍事統制行政改革推進して中国人民解放軍進撃備えようとしたが、結局、翌1949年民国38年3月安慶まで人民解放軍迫ったのを見て安徽省政府主席辞任武漢白崇禧の下に逃れたその後新広西派軍は敗退重ね9月には湖南省衡陽宝慶一帯にまで追い込まれた。このとき、長沙への反攻転じようとの意見同僚たちにあったのに対し夏威は軍を保って広西いち早く撤退すべきと主張している。結果新広西派の軍は逡巡して衡宝で大敗桂林逃れたが、この結果に夏は不満を抱いたその後敗退重ねた新広西派はついに12月大陸から追われ海南島逃げ込んでいる。夏威は後に香港移住した1975年1月3日香港自動車事故遭い死亡した享年83(満81歳)。

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国共内戦での活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 14:49 UTC 版)

李弥」の記事における「国共内戦での活動」の解説

日中戦争終結後李弥第8軍雲南省離れ山東省の濰県・昌楽県駐留した1948年民国37年7月第8軍徐州移り李弥は第13兵団司令長官昇進淮海戦役参戦する。しかし、この戦役中国国民党側は中国人民解放軍大敗1949年民国38年1月に第13兵団全軍覆滅となり、身一つ上海へ逃亡した同年5月は第13兵団再建を命ぜられ、福建省軍備補充・再訓練行ったその後第6編司令部司令兼ね8月雲南省入りし、雲南省政府主席盧漢の下に配属されている。 しかし1949年民国38年12月盧漢中華人民共和国側に転じる起義(反国民党蜂起)を宣言するその際李弥張群当時西南軍政長官)や第26軍長余程と共に盧により拘留されてしまった。まもなく国民党軍昆明攻撃動いたこともあり、盧はその動き緩和しようと張や釈放している。釈放され第8軍戻り部隊率いて雲南省南部逃走した

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