国共内戦での活動
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1946年(民国35年)に夏威は第8綏靖区司令官に任命され、安徽省の新広西派軍を率いて国共内戦に備えることになった。1948年(民国37年)8月、夏は李品仙の後任として安徽省政府主席に任ぜられ、9月、華中剿匪副総司令も兼ねた。夏は軍事統制と行政改革を推進して中国人民解放軍の進撃に備えようとしたが、結局、翌1949年(民国38年)3月に安慶まで人民解放軍が迫ったのを見て安徽省政府主席を辞任、武漢の白崇禧の下に逃れた。 その後も新広西派軍は敗退を重ね、9月には湖南省の衡陽・宝慶一帯にまで追い込まれた。このとき、長沙への反攻に転じようとの意見が同僚たちにあったのに対し、夏威は軍を保って広西にいち早く撤退すべきと主張している。結果、新広西派の軍は逡巡して衡宝で大敗、桂林に逃れたが、この結果に夏は不満を抱いた。その後も敗退を重ねた新広西派はついに12月に大陸から追われ、海南島に逃げ込んでいる。夏威は後に香港へ移住した。1975年1月3日、香港で自動車事故に遭い死亡した。享年83(満81歳)。
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国共内戦での活動
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日中戦争終結後、李弥の第8軍は雲南省を離れ、山東省の濰県・昌楽県に駐留した。1948年(民国37年)7月、第8軍は徐州に移り、李弥は第13兵団司令長官に昇進、淮海戦役に参戦する。しかし、この戦役で中国国民党側は中国人民解放軍に大敗、1949年(民国38年)1月に第13兵団も全軍覆滅となり、李は身一つで上海へ逃亡した。同年5月、李は第13兵団再建を命ぜられ、福建省で軍備補充・再訓練を行った。その後、第6編練司令部司令も兼ね、8月に雲南省入りし、雲南省政府主席盧漢の下に配属されている。 しかし1949年(民国38年)12月、盧漢は中華人民共和国側に転じる起義(反国民党蜂起)を宣言する。その際に李弥は張群(当時、西南軍政長官)や第26軍軍長余程万らと共に盧により拘留されてしまった。まもなく国民党軍が昆明攻撃に動いたこともあり、盧はその動きを緩和しようと張や李を釈放している。釈放された李は第8軍に戻り、部隊を率いて雲南省南部に逃走した。
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