国共内戦での敗北、晩年
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日中戦争終結後の1945年(民国34年)8月、羅卓英は広東省政府主席に任命された。羅は省政改革に熱心で、1947年(民国36年)には広東5か年計画を打ち出すなどしている。しかしその熱意にもかかわらず、財政上の困難もあって政策実行は十分なものとはならなかった。また、省政府主席任期中に3度海南島に渡り、パラセル諸島(西沙諸島)の接収工作に従事し、さらにはスプラトリー諸島(南沙諸島)の最南端の島を「南威島」と命名する挙動までしている。 1947年(民国36年)9月、国民政府主席東北行轅主任に任ぜられていた陳誠の要請により、羅卓英は副主任として招聘された。陳と羅は東北での軍の拡充に尽力したが、東北民主聯軍(後の東北人民解放軍)が10月に秋季攻勢を発動するとこれに抗しきれず、翌年1月には主力部隊である新5軍の覆滅という大惨敗を喫した。これにより陳は主任から辞任に追い込まれてしまい、羅も副主任から退いている。1948年8月5日、東北剿匪総司令部副総司令。1948年(民国37年)12月末に陳が台湾省政府主席兼警備総司令に任ぜられると、羅も陳から再び招聘され、逃亡してきた国民政府軍の再訓練・整備に従事した。1949年(民国38年)7月、陳と羅は東南軍政長官公署の正副長官に任ぜられている。 1950年(民国39年)3月、羅卓英は総統府戦略顧問に任ぜられた。それ以後、国防研究院副主任、革命実践研究院副主任、光復大陸設計研究委員会(中国語版)委員(台南研究区主任)などを歴任。 1961年(民国50年)11月6日、台北市にて糖尿病により没。享年66(満65歳)。
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国共内戦での敗北、晩年
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戦後の1946年(民国35年)5月、曽拡情は軍事委員会委員長重慶行営政務処処長に任ぜられ、以後、四川省で国民党の党勢維持に努めることになる。同年11月、制憲国民大会代表に選出された。1947年(民国36年)6月、党川康渝区党務特派員に任ぜられ、さらに国民政府主席重慶行轅(軍事委員会重慶行営を改組したもの)で秘書長も兼ねた。翌年1月、立法院立法委員に任命され、同院国際委員会委員となっている。6月、四川省党部主任委員となった。 国共内戦末期の1949年(民国38年)には、曽拡情は川陝甘辺区綏靖公署中将副主任、成都防守司令部政治部主任、四川省地方武装統一委員会主任委員などを務め、国民党による大陸西南部の死守に従事することになった。しかし、四川省は同年12月に中国人民解放軍により制圧され、曽も成都で捕虜とされてしまう。 以後、曽拡情は戦犯として収監され、1959年12月に特赦で釈放された。その後は遼寧省本渓市に移住し、遼寧省政治協商会議第4期・第5期委員、第6期政治協商会議全国委員会委員を歴任している。また、国民党時代の様々な事件について回顧記事を執筆し、刊行した。 1983年11月3日、本渓市にて死去。享年87(満86歳)。
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国共内戦での敗北、晩年
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1946年(民国35年)1月、王耀武は国民政府軍事委員会第2綏靖区中将司令官に任命され、10月には山東省政府主席兼保安司令にも就任した。1947年(民国36年)2月より中国人民解放軍を迎撃したが、1948年(民国37年)9月、済南戦役で敗北、捕虜とされてしまった。中華人民共和国建国後は思想改造を受け、1959年12月、特赦により釈放された。その後は中国人民政治協商会議全国委員会で文史資料研究委員会専員となり、1964年には政協第4期全国委員会委員に選出された。 1968年7月3日、北京市で病没。享年66。
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