秋季攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 15:16 UTC 版)
「カール・フォン・クラウゼヴィッツ」の記事における「秋季攻勢」の解説
1813年1月にシュタインが新政府を樹立し、ケーニヒスベルクで国土防衛軍を組織していた。クラウゼヴィッツはタウロッゲン協定の仕事の後にケーニヒスベルクに戻り、一方のシャルンホルストも3月に参謀総長に返り咲いた。ケーニヒスベルクでは東プロシアでシュタインとクラウゼヴィッツが防衛軍の組織化のための作業を開始しており、2月6日にはクラウゼヴィッツが作成した布告がシュタインとシャルンホルストの同意によって予備兵2万名が召集された。これはマクドナルド元帥がフランス軍4万名を保持してダンツィヒに存在する緊張状態の中で迅速に進められた。そして3月17日にプロイセン国王はフランスに対して宣戦布告を行い、ナポレオンの支配に対する諸国民解放戦争が勃発した。ヨルク中将は同日のうちにプロイセン固有の軍隊としてベルリン入場を果たし、再軍備の準備が進められていた。しかしクラウゼヴィッツはプロイセン軍に復帰することがなかなかできず、国王に自ら請願しているが、3月19日に却下された。そのためにシャルンホルストはロシア軍からの連絡将校としてプロイセン軍に勤務させる配慮を行い、ブリュッヘル軍に所属した。5月2日にシャルンホルストとともにグロスゲルシェンの戦いに参加し、フランス軍は兵力不足と損害の大きさ、そしてオーストリアの参戦を危惧して6月4日から8月16日までに休戦が締結された。シャルンホルストはこの戦いで銃創を脚に負ったが、無理を押して休戦中にオーストリアに参戦交渉に向かい、傷が悪化したためにプラハで6月28日に死去した。クラウゼヴィッツはグナイゼナウと共に追悼している。1813年の秋季戦役によってフランス軍は敗北し、1814年にはプロイセン国王はようやくクラウゼヴィッツをプロイセン軍の大佐に任命して復帰を許した。
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